酒の肴は一冊の本。旅の友も一冊の本。活字中毒者の書評と読書感想文。

「重巡洋艦戦記」丸編集部編

 雑誌「丸」に掲載された海軍重巡洋艦の戦記18篇(通史含む)。
 ひとつひとつのボリュームこそあまりないものの、非常に貴重なものばかり。
 レイテ沖海戦で謎の反転をした栗田健男のハゲが戦後アメリカ戦略爆撃調査団に答えた調書もあります。
 小沢部隊からの通信はなかったと、逃げハゲは嘘をついています。
 いったいどこから回ってきたものなんでしょうね。
 雑誌に掲載された日付を書いていてくれたらもっと味があったと思う。
 衣笠の沈没時の戦記もありましたが、これも珍しかったです。
 日本に重巡は18隻ありましたが、本書に載っていない戦記は愛宕、古鷹、足柄、加古、摩耶で、あとは全部ありますね。
 だいたいは、重巡が戦闘の中心となった第一次ソロモン海戦、レイテ沖海戦が舞台になっています。
 日本の重巡はアメリカと違って魚雷がありました。艦隊決戦、艦砲射撃、海上護衛戦と、図体ばかりでかくて取り回しのきかない戦艦に代わって太平洋戦争の先頭で戦い続け、無事残ったのは1隻もありませんでした。

「開戦前夜『妙高』被爆す」重本俊一(妙高乗組・大尉)
 南比支援隊だった妙高は、日本の軍艦で初めて敵航空機による爆撃で被害を受け35名が死亡した。新米士官だった著者は間一髪助かったが、ラッタルを登る順番が違っただけで同期生が死んだ。
「五戦隊『那智』スラバヤ沖の凱歌」田中幸治(那智高角砲分隊長・少佐)
 昭和17年2月27日、スラバヤ沖で敵巡5駆逐9の敵艦隊を発見しながら魚雷発射ミスという不手際をした第5戦隊旗艦那智は、夜戦で名誉を挽回する。
「七戦隊『三隅』と『最上』の衝突」山内正規(最上航海長・大佐)
ミッドウェー作戦中止後、ミッドウェー島から80海里足らずの危険地帯で、前代未聞の衝突事故を起こした最上と三隅。当時の操艦責任者であった最上の航海長が、そのすべてを明かす。
「第一次ソロモン海戦の思い出」三川軍一(第8艦隊司令長官・中将)
 昭和18年8月8日のツラギ殴り込みで、敵重巡4隻を撃沈した重巡部隊最高の凱歌となった第一次ソロモン海戦だが、なぜ再突入して敵輸送船部隊を抹殺しなかったかという疑問が残っている。指揮官だった著者は、夜明け前に敵航空部隊の圏内から脱出しなければならなかったこと、艦の保全、陸軍部隊への過度の信頼があったことを原因として挙げている。
「第八艦隊の殴り込み『鳥海』砲術長の手記」仲繁雄(鳥海砲術長・中佐)
 ツラギ殴り込み作戦を企画した神重徳参謀が再突入を回避した言い訳。朝になったら敵機動部隊に攻撃されることを避けたかっため。今となっては阿呆と思うが、当時はそれが上層部の常識だったかもしれない。
「悲運の第六戦隊、米電探に敗る」貴島掬徳(第6戦隊先任参謀・中佐)
 昭和17年10月11日夜、6戦隊司令官五藤存知少将が戦死したサボ島沖夜戦の顛末。
「前衛『筑摩』と南太平洋海戦」古村啓蔵(筑摩艦長・少将)
 機動部隊の前衛として、敵に突進した筑摩は、母艦の身代わりとなって敵機に攻撃された。爆弾が艦橋に命中し、副長以下151名が戦死した。
「夜戦の雄『衣笠』ソロモン海に没す」村上兵一郎(衣笠機関科電気部伝令員)
 貴重な衣笠の戦記。ツラギ殴り込み時、敵水雷艇が味方と勘違いして近づいてきたので12センチ砲1発で吹っ飛ばしたとのこと。昭和17年11月14日、第三次ソロモン海戦帰途空襲によって沈没、著者らは駆逐艦雷に救助された。
「五戦隊『羽黒』ブーゲンビル島沖夜戦」井上司朗(羽黒信管手)
 著者は師懲現役(現役教員)、無章の下士官。何も出来ないのに位だけ高い師懲兵は、特技を必要としない弾薬庫火薬員に配属される場合が多い。昭和18年11月1日のブーゲンビル島沖夜戦の顛末。
「前衛部隊『熊野』マリアナ沖決戦記」青山総市(熊野航海長兼通信長・大尉)
 昭和19年8月19日、マリアナ沖決戦で前衛部隊として空母瑞鳳の護衛をしていた熊野の戦記。
「最新鋭重巡『利根』サマール沖の突進」黛治夫(利根艦長・大佐)
 賛否両論ある著者による貴重な記事。戦犯として7年の重労働刑を受けた著者ですが、その原因となったインド洋での商船ビバール号拿捕及び捕虜取扱の経緯にも触れられています。本人曰く無実とのことですが、私は眉唾だと思う。何かこう、書き方がキレイすぎる。本題はレイテ沖海戦。敵に向かって先陣で突進したと思われている利根ですが、その先4千メートルには筑摩がいたそうです。初耳。
「七戦隊『鈴谷』サマール沖の最期」寺岡正雄(鈴谷艦長・大佐)
 レイテ沖海戦で戦隊旗艦である熊野が大破し、司令官以下幕僚は鈴谷に移乗しましたが、鈴谷もまた至近弾を受け、魚雷の炸薬に引火、誘爆して沈没しました。
「西村部隊『最上』スリガオ海峡の死闘」興石辯(最上高角砲指揮官・大尉)
 これも貴重な戦記。スリガオ海峡で待ち伏せにあって壊滅した西村艦隊の顛末。ある程度の電探射撃は可能だったそうですが、それでも敵とは能力差があったそうです。扶桑は真っ二つ、山城はボコボコにされて苦しみ抜いて沈没したそうです。
「レイテ沖突入ならず」栗田健男(第2艦隊司令長官・中将)
 米戦略爆撃調査団に対する証言記録。大和から水偵を2機飛ばしたことは今まで読んだどの本にもなかったこと。また、敵の無線を傍受し、2時間で敵機動部隊の増援が到着すると知ったので反転したと回答しているが、それが真実ならば戦後栗田長官がこれほどバカにされることもなかっただろうと思う。実際、航空部隊の援護なしでよくやった。しかし、小沢囮艦隊からの通信を黙殺したことは疑いなく、このハゲが確信的に「逃げた」ことは間違いない。
「レイテ還り『熊野』の孤独な戦い」山縣侠一(熊野航海長・中佐)
 レイテ沖海戦後、10月28日に命からがらマニラに入港し、11月25日にサンタクルーズ湾に沈むまでの熊野の末期の記録。期間中、受けた爆弾は7発、魚雷は6発。
「歴戦艦『羽黒』マラッカ海峡に消ゆ」淺井秋生(羽黒砲術長・中佐)
 一水兵の機転と活躍でレイテ沖海戦での撃沈を免れた羽黒だったが、昭和20年5月、魚雷発射管を外し主砲が旋回しなくなるほどの物質を山積みして輸送任務をこなしていた。そこを英駆逐艦群に襲われ、なぶり殺しにされる。
「軍艦『高雄』防空砲台となりて」宮崎清文(高雄主計長・主計大尉)
 レイテ沖に出撃途中、敵潜の雷撃を受け中破、そのままシンガポールのセレター軍港に係留されたままとなって、対空砲台と化した高雄の運命。おぼろげですが処分される直前の写真があって、あんがい船体はそれほど変化していないと感じました。


 

 
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