酒の肴は一冊の本。旅の友も一冊の本。活字中毒者の書評と読書感想文。

「駆逐艦『不知火』の軌跡」福田靖

 真珠湾攻撃に出撃以来約3年間にわたって海上戦闘に出撃し、レイテ沖海戦で日本海軍最後の沈没艦となった陽炎型駆逐艦「不知火」の戦記。
 著者は毎日新聞の元幹部で、大正9年生まれの長兄が不知火の機関兵だったことが本書を編纂するきっかけとなりました。お兄さんは不知火で戦死されましたが、終戦1年後に戦死公報が届き、お父さんが受け取った木箱の中には、兄の氏名と海軍の等級を記した紙片が一枚入っていただけで、お父さんは一言「犬死じゃったのう」と言ったそうです。
 著者が、沈没時の様子が定かではなく生存者もいないとされる不知火の戦記を著した背景には、兄の死を犬死にはしない不戦への強い想いがあったのではないでしょうか。

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 陽炎型駆逐艦「不知火」
 昭和14年12月20日就役
 基準排水量 2033トン
 35・5ノット
 第18駆逐隊司令艦
 

 内容は、太平洋戦争の流れを大きな背景として不知火の航跡をそれに混じえる形で綴られています。
 バランス的には、やや太平洋戦争概論にウェートが置かれすぎており、不知火へのスポットが少なすぎるように思いますが、本書の海軍太平洋戦争概論はなかなか読み応えがあったように思うので、戦記へのとっかかりを探しておられる方にはちょうどいいでしょうし、不知火は歴戦の割には残っている記録が少ない艦でもあります。
 というのも、真珠湾攻撃からインド洋作戦、ミッドウェー作戦と機動部隊の護衛警戒艦として行動を共にしながら、キスカ島作戦で昭和17年7月5日に米潜水艦グロウラーの雷撃を受け、艦首が遮断される大被害を受けて1年2ヶ月もの間、舞鶴工廠で修理されていた期間があったからです。このときは、同じ第18駆逐隊の「霰」が轟沈、「霞」も船体が両断される被害を受けました。一隻の潜水艦に3隻の駆逐艦が一瞬でやられたのです。第18駆逐隊の司令は自決を図ろうとしました。
 結局、これが元で第18駆逐隊は解体され、右舷第1缶室に直撃を受けて艦橋から前を失った不知火は、125メートルあった船体が75メートルになった変わり果てた姿で後進のまま曳航され内地に帰還しました。
 修復工事を終えて不知火が再び戦線に復帰したのは、昭和18年11月です。
 艦長は赤沢次寿雄中佐から荒悌三郎少佐へと交代し、昭和19年3月には第18駆逐隊(霞、薄雲)が再編成されました。
 そして運命のレイテ決戦では、志摩艦隊の一艦として出撃し、10月27日避退先のコロン湾から軽巡鬼怒の救難に向かったまま、行方不明になりました。生存者はいません。目撃者(海上を漂流していた軽巡鬼怒航海長・飯村忠彦氏)の伝えるところでは、不知火は鬼怒の沈没地点に到着したところで、敵艦爆機編隊の攻撃を受けて撃沈されたそうです。
 海軍の太平洋戦争概論の中身が濃いと書きましたが、私がそう書いた理由のひとつに志摩艦隊の行動が詳細に書かれている点があります。レイテ決戦に参加した日本の艦隊にはそれぞれ栗田艦隊、小沢艦隊、西村艦隊、志摩艦隊と名付けられていますが、志摩艦隊については直接戦闘に参加しておらずその動きを知らないままでした。遮二無二にスリガオ海峡を突撃して全滅した西村艦隊のすぐ後方を全速力で志摩艦隊は追っていたのですね。西村艦隊の悲壮極まる最期を受けて、志摩艦隊は退却を決断しました。動艦隊(うごかんたい)と揶揄された志摩艦隊ですが、この退却は仕方なかったのではないでしょうか。むしろ、中央が志摩艦隊の扱い方に迷いがあり、適宜で判断して使用しようとする遊軍的な立場に追いやられていたことが気の毒であったようにも思います。乾坤一擲の勝負というのならば始めから栗田艦隊か西村艦隊に合流させていればよかったではないですか。栗田艦隊の謎の反転に目がいってしまうレイテ沖海戦ですが、結局のところ軍令部の無策がそのまま露わになったような気がします。


 
 
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