酒の肴は一冊の本。旅の友も一冊の本。活字中毒者の書評と読書感想文。

「海鷲 ある零戦搭乗員の戦争」梅林義輝

 人間は社会的動物であり、社会を離れて人間は存在しない・・・という書き出しで始まる異色の戦記。
 それもそのはず、著者の梅林義輝さんは大学の哲学科を卒業した愛媛の県立高校の校長先生でした。
 しかも、この校長先生は弾雨降り注ぐ大空を生き抜いた予科練出身の零戦搭乗員という過去を持っていたのです。
 岩井勉(「空母零戦隊」)や白浜芳次郎(「最後の零戦」)といった海軍のエースパイロットの列機でした。

 著者の梅林義輝さんは大正15年愛媛県出身。
 中学校3年生の昭和17年4月、憧れの飛行機乗りになるべ甲種10期予科練に入隊(入隊1097名)。
 飛練(32期)、戦闘機実用教程を昭和19年1月に修了し、卒業後は築城空などで錬成教育を受け、神ノ池空の教員を経て、母艦航空隊である653空の戦闘機隊に配属されました(のちに最後の母艦航空隊である601空)。
 甲飛10期生中、戦闘機専修者は約350名いましたが、その中で母艦搭乗員になったのは13名だけだったそうです。
 作中では「私は下手だったのに」と謙遜されてますが、本当に下手では空母への離発着はできないでしょう。
 もっとも、一度だけ「瑞鶴」への着艦で失敗して飛行機を凹ませ、罰金10円(今の1万円くらい?)取られてます。
 「瑞鳳」への着艦で慣れていたので、それより大きい「瑞鶴」ならばと油断したそうです。
 653空から601空に配置換えされてからは、「天城」で訓練もしています。
 サブタイトルには最後の母艦航空隊員の手記とありますが、まさにその通りだったわけです。
 昭和20年4月3日の沖縄作戦では、喜界島に不時着しながらもF6Fを1機撃墜しています。
 米軍の公刊戦史に照らし合わせてのことなので、確かなことなのでしょう。
 この後、終戦の寸前まで対B-29の首都防衛に奮迅しました。

 著者の同期である甲飛10期は、敷島隊の面々を初めとして多くが特攻で戦死しました。
 著者が特攻から免れたのは、不思議な巡り合わせがあったとしか考えられません。
 そういう星の下に生まれていたといいますか。
 特攻を推進した201空副長・玉井浅一中佐と飛行長・中島正少佐が居座る悪名高いフィリピン・マバラカット基地に、零戦を空輸したときは、「このままここにいろ」と言われましたが、空輸指揮官である青木泉蔵中尉(海兵72)が「空輸が終われば帰隊せよと命令されている」とそれをはねつけたために助かったのです。
 また、653空にいた当時、隊は小沢艦隊の空母に配乗されて捷一号作戦を戦ったわけですが、このとき著者は国内で零戦を空輸していたために、作戦配置から漏れました。
 もしも参加していたならば、優勢なるハルゼー機動部隊との戦闘を生き抜いたとしても事後のフィリピン(空母を出撃した航空隊は小沢長官の命令により作戦後母艦帰還せずともフィリピンへの帰着が認められていたが、そこには特攻地獄が待っていた)も含めどうなっていたかわかりません。
 このあたりが運命なのですね。
 戦後、予科練出身者への風当たりが強い中、著者は教員を目指しました。
 価値観が180度変わったなかでの転身は、生活のためとはいえ、非常に苦痛を伴うことであったと思われます。
 しかし、それをあえて背中を押してくれたのは、夢半ばで散った同期の予科練搭乗員だったのではないでしょうか。
 旧軍人が手のひらを返したように蔑視されるなか、「生きてるおまえは新しい日本のために頑張れ」という厳しい訓練を耐えに耐えたあげく特攻で散った同期の魂が彼を支えたのではないでしょうか。
 県立高校の教師として、校長先生として新しい日本の時代の若人を送り出した著者は、その思いにきっと応えたことだろうと思います。
 本作で多くのページが割かれている予科練の猛烈なシゴキを反面教師として。
 ある意味、日本が戦争に負けたのは当然でしょうね。


 
 
 
 

 
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