「生存者の沈黙」有馬頼義

 悲劇の緑十字船阿波丸撃沈の謎。
 空襲の跡も生々しく、いまだ復興の糸口さえ見えない東京。
 アメリカ兵がタバコを2,3本投げると人たちはバッタのように飛びついて奪い合い、日本人が闇米を背負ってくると、同じ日本人がからだを売ったり着物を売ったりして、それを買っていく。
 一ヶ月分の配給米をおかゆにすると、3食分しかない。
 戦後間もなくの被占領下、敗戦の傷跡が癒えない日本を舞台にした、昭和ミステリー小説。

 阿波丸(1万1千数トン)は、日本占領下にあった連合国捕虜及び抑留者に対し米国から送付した救援物資を南方諸地域に輸送する任務を帯びた船で、安導券(航行の安全を保障された)を持った船でした。
 あの戦争の中で、阿波丸ほど安全な場所はなかったとまで云われた船です。
 舷側には大きく緑十字を塗装して夜間は照明でそれを照らし、連合軍側にもその予定航路と時間を通知していました。
 しかし、昭和20年4月1日、台湾海峡で米潜水艦に撃沈されてしまったのです。
 阿波丸には、ほとんどが非戦闘員である2004名(小説ママ)の日本人が乗っており、助かったのはわずか1名でした。
 激怒した日本は敵国であるアメリカに抗議し賠償を請求しました。
 アメリカは非を認め、阿波丸を撃沈した潜水艦艦長を軍事裁判にかけましたが、賠償については答えを引き伸ばしました。
 なぜなら、日本の敗戦が迫っていたからです。
 アメリカの目論見通り、戦後占領下にある日本政府は、当時のお金で2億円と見積もられた阿波丸賠償の請求を棄却しました。アメリカからの戦後復興の援助と相殺されたのです。勝者の無理は通りますが、敗者の道理は通りません。
 結局、本来ならアメリカが支払うべき阿波丸遺族への賠償は日本政府が肩代わりし、その額はわずか7万円(約40万円?)という雀の涙程度のお金が遺族に支払われたのでした。

 物語では、阿波丸の到着を待つ門司港で出会った、新聞記者の高須昌宏と夫を外交官に持つ守屋敦子のふたりが、謎のまま放置された阿波丸撃沈の謎に迫っていくという構成になっていますが、あとがきによれば、これはほぼ著者の実際の行動をなぞるものであったようです。
 著者もまた従兄の外交官を阿波丸事件で亡くした遺族であったのですね。
 著者がこの小説を書こうと思い立ったのは昭和20年4月のことらしいですから、当時から阿波丸事件のことを知る立場に著者はいたということです。本作の刊行は昭和41年。実に構想から20年という長い月日が経っています。
 それもそのはず、戦後しばらく阿波丸に関係する資料はでてきませんでしたから。
 誰が乗っていたのかさえ正確なところはわからなかったのです。
 唯一の生存者であるコックの下川勘次(下田勘太郎)は、昭和21年2月に帰国しましたが、会見では事件の詳細について「何も知らない、忘れた、憶えていない」と沈黙を貫きました。
 帰国したばかりの下川がマッカーサーに会ったのは、事実ですがこれもまた謎です。
 小説ではやっと下川が口を開いたのは帰国してから5年後の昭和27年くらいとなっています。
 そこで下川が語ったことが、結局、著者の行き着いた結論だったのでしょう。
 吉田茂に面会を求めてまで事件の真相を追求した著者ですが、肝心の阿波丸を撃沈した潜水艦長ラフリン中佐の裁判記録などは当時ではわからないままでした。
 ですから、この結論には現時点で阿波丸関係二作「阿波丸はなぜ沈んだか」松井覺進「阿波丸撃沈」ロジャー・ディングマンを読んでいる私にとってはいささか物足りませんが、それは当然であり仕方のないことです。
 むしろあの当時に阿波丸に目をつけた先見の明は、貴重だったと思われます。
 残念なのは、著者が亡くなったのは中国が阿波丸をサルベージしてから間もなくであり、その概要を知ることができなかったと思われることです。
 元気であれば、有馬頼義は何を思ったでしょうか。

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