「無垢の領域」桜木紫乃

 用意した大きめの端渓に墨液を流し込み、硯のくぼみで二種類の青墨を擦る。
 乾燥した室内の、更に乾燥する場所で、この女はなにを書くつもりなのだろう。
 秋津は息を潜めて純香の背と肩、墨を含んだ筆先を見つめる。
 ひと筆目は逆筆で入った。純香の体が文字と一緒にうねる。
 強弱、緩急。止める、伸ばす、持ち上げ、なだめ、振り切る。――思わず、ため息が出た。
 純香の手から筆をはずした。
 筆を持たなければ頼りない少女でしかなくなる。
 畏れと嫉妬、感じたこともないかなしみが秋津の内側で凍り始める。
 純香が持つ異形の才は、秋津を心の底から震えさせた。


 215ページの衝撃は、しばらく忘れられそうにありません。
 北海道の生んだ実力派作家・桜木紫乃による、読むだに切ない物語です。
 ヒューマンドラマでもあり、恋愛小説でもあり、家族小説でもあるこの傑作長編小説を、私は読み終わってしばらく逡巡した結果、あえて芸術小説、芸術ミステリーということで仕分けしたいと思います。
 なぜかと云えば、この様々な人間ドラマが織り込められている作品を振り返って見ても、真っ先に思い浮かぶのは林原純香の筆を持って半紙に向かっている後ろ姿であるからです。
 25歳でありながら普通に生活を営むことができない純香が、筆を持って発揮する天賦の能力。
 それを小説という形でしかその作品を想像することしかできないとは、誠に残念ですね。映画になればなあ。
 さらに、秋津の母である書道家・秋津鶴雅の、息子を筆の力で世に出したいという執念は、物語を通してまるで呪詛のように不気味なBGMになっているでしょう? やはり、この小説は芸術モノだと思いますねえ。
 桜木紫乃といえば、海の掘っ立て小屋と十勝の牧場の嫁いびりが名物だと思っていましたが、同じ北海道が舞台といえど、このような作品も書けるのですねえ。ずっと印象に残る作品でした。非常によかったです。

 じゃあ、ちょっとあらすじしといて、後少しネタバレでも。
 舞台は釧路。人口18万人のこの街は、同じ北海道でも札幌や十勝、旭川とはにおいも景色も温度も人も違う。
 秋津龍生は、42歳の書家。母が長らく道東の書道を牽引してきた書道家であり、中国への留学歴など立派な経歴を誇りながら、金と中央への人脈がなければ出世できない芸術界の仕組みに阻まれ、鳴かず飛ばずだった。週に3回の書道教室の収入は、高校の養護教諭をしている妻・怜子の半分にも満たない。さらに、5年前に倒れて半身不随となった母の介護に追われ、「墨龍展」という既成権威からの脱却を図った新設の公募展への挑戦だけが、いい年をしながら肩書も収入もない男の心の支えだった。
 指定者管理制度で民営化した釧路市立図書館のロビーを借りての、個展。
 準備した芳名帳への記帳は情けないばかりの、初日の雨の中、その女は現れた。
 青みがかった白い肌、目鼻立ちは整っているが美しいというのとは違う。顔かたちの良さを引き立たせる表情が欠落している。魚も住めないほど澄み切っている水のような瞳。そして、芳名帳に書かれた恐怖を覚えるほど整った楷書文字。
 彼女は、この図書館の館長として札幌からやってきた林原信輝の10歳下の妹だった。林原純香という。
 純香は、世話をしてくれていた書道家の祖母が亡くなったために、身内である兄のところに移ってきた。
 年齢に心が追いついていない彼女は、25歳にして少女のままであり、無垢な透明さがあった。
 個展で龍生の作品を見た純香は、前へならえの姿勢のまま「この幅からでてこないの、この字。紙の大きさに負けてるの。怖がっている書いてる。紙のことも、墨のことも」と率直に感想を漏らし、兄に連れて行かれた。
 純香のひとことは、思わず痛みすら麻痺するくらいの深傷を龍生に与えたが、同時に、とてつもないものを見つけた喜びにも満ちた。かつてこれほど強い言葉で自分の書を言い当てられたことはない。龍生の心は痺れたままだった。
 これが秋津龍生と、彼の書道教室を手伝ってもらうことになる林原純香の出会いだった。
 そして、それは同時に、龍生の妻である秋津怜子と純香の兄である林原信輝の出会いの発端でもあった。

 では、ネタバレなんて大げさだけど気になったところを。
 まず気になるのは、秋津龍生の母がどうして6年間も詐病していたのか、ということですね。
 ラストで盾を落としたことからも、詐病というのは間違いありません。むしろ、あそこで叫びだすんじゃないかと思ってページをめくるのが怖かったです。おそらく当初は本当に不髄になっていて、どこかで治ったんじゃないかと思うんですが、そのまま寝たきりのふりをしていたのは、ふがいない息子への失望と育てた自分からの逃避もあるでしょうが、怜子に龍生の元を去らせないためだったんではないでしょうか。どっちの比重が高いかはわかりませんが、両方あるのは間違いないと思います。怜子という人格を読み切っていたと思うんですね、この秋津鶴雅という書道家の母は。
 そして、死んだおばあちゃんに会わすと嘘を言って純香に作品を書かせ、さらにそれを龍生が模倣して墨龍展に出品するように裏で糸を引いていたんですよ。「僕という人間に、神様が与えてくれたものがこれなんですよ。あなたには、わかってたんだ最初から」という龍生のセリフは、自分の観賞能力を言ったものです。龍生は、2つ作品を見比べてどっちが優れているか見極めることができますが、己からその作品を創造する能力はなかったんですね。ということです。
 しかし、それにしても・・・残念だったねえ、純香(墨香)は・・・


 
 
 
 
 
 
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