「浪速のロッキーを〈捨てた〉男」浅沢英

 部屋の真ん中に置かれたソファに腰を下ろした赤井は、遠い昔を語り続けた。
 だが赤井は逸話の根にある思い出を、最後まで語り続けることができなかった。
 「倒し屋として売り出すことになった理由? それはつまり、世界チャンピオンになるには、それしか方法がなかったからですわ」 そう語ったとき、赤井の横顔は、固く強張っていた。
 「ああいうボクシングをしたことに後悔はないです。なんであんな負け方をしたのか、理由はいろいろあるんでしょう。せやけど結局ね・・・」 そこで途切れかけた言葉を、赤井はどうにかつないだ。
 「結局、ジムで会長と目と目を合わさんようになったら、ボクサーは終わりということですわ」


 浪速のロッキーの異名をとった人気ボクサー赤井英和のラストファイトは、無残なKO負けである。
 しかも敗戦のリング上で昏倒して危篤に陥った赤井は、硬膜下出血で死の淵をさまよった。
 赤井英和は世界タイトル戦を目指す途上であり、相手の大和田正春は1年7ヶ月の間でわずか1ラウンドしかリングに上がっていない、ほぼ引退間近のかませ犬に過ぎなかった。完勝してしかるべきであった。
 しかし、赤井の周辺では、実はひそかに試合の前から敗戦が囁かれていたのである。
 敗戦の遠因、それはジムの会長である津田と赤井の確執である。
 血と汗を流し、場末のみずぼらしいジムから這い上がってきた師弟の感情の行き違い。
 津田あっての赤井だったのか、赤井あっての津田だったのか――
 関西、いや日本ボクシング界の雄、希代のプロモーター津田博明の62年に及ぶ波乱の人生を追いながら、道路横の公園でサンドバックを叩き合った夢見るトレーナーと稀有なファイターの、哀しい別離の真相に迫る。

 ジムの名前は何度か変遷しているようですが、私には“グリーンツダ”の名前が一番しっくりくるかな。
 元グリーンツダジム会長、津田博明の名は日本ボクシング界で知らない者はいません。
 日本で最初の日本人ボクサーによる、プロボクシングのダブル世界戦を興行。
 プロ9戦目で世界チャンピオンになった井岡弘樹をはじめ、亀田兄弟ほか多くのボクサーの原石を見出してきました。
 ボクシングによってもっとも人生を成功させた男、とも呼ばれています。
 しかし、津田博明の人生はけっして最初から順風満帆だったわけではありません。
 昭和19年長崎に生まれた津田は、17歳で大阪に出てきて理髪師など職を転々としていました。
 日本ボクシング界の黄金期と云われた昭和41年、津田は銭湯でボクシングジム練習生募集のポスターを見、新進ジム(現新日本大阪ジム)に入門。しかし彼はプロボクサーになったわけではありません。ジムの鈴木会長に言わせると筋が良かったらしいのですが、なぜか津田はハナからトレーナーを目指していたそうです。
 タクシー運転手として働きながら、ジムで7年間無給のトレーナーを務めた津田は、ボクシングによって自分を取り巻く世界を一変させたいと願い続けていました。そしてなにより、津田はボクシングが好きでした。
 神林拳闘会に移籍した津田の元に、昭和51年浪速高校ボクシング部の赤井がやって来ます。
 当時赤井は、2年生に進級できなかった高1の17歳で、文化アパートに妻と住んでいた津田に何度も頭を下げて、ボクシングを指導してもらえるように頼んだそうです。津田博明32歳の夏でした。
 本書を読んでいると、津田は赤井にそれほど期待していなかったように思えます。
 しかし、赤井英和との出会いが、津田博明の人生を大きく変えることになったのです。
 津田は昭和55年にようやく自前のジムを持ちました。妻セツ子の貯金をはたき、長屋の一部を改装した室内は、わずか10坪しかありませんでした。
 ボクシングジムの経営は、練習生が毎月払ってくれる練習費と興行の儲けで成り立っています。
 赤井はこのみすぼらしいジムに、何十人も練習生を入門させ、スポンサーまで見つけてきました。
 そしてデビュー以来の連続KO日本記録を打ち立てた赤井には、ついにテレビ局までがついてくるのです。
 「テレビ放送してくれるならギャラはいりません」と津田は言ったそうですが、西成在住の浪速のロッキー赤井英和の人気は凄まじく、当時の大阪の世界チャンピオン渡辺二郎を凌ぐほどだったそうですから、興行を打つ津田が儲からないはずはありません。じきに津田ジムは天下茶屋に引っ越して、合宿所まで併設するようになります。
 しかし、この時分までが、希代の名伯楽津田博明と、稀有なカリスマボクサー赤井英和の短い蜜月だったのです。

 さて、津田会長と赤井の離反の真相について。
 おそらくですが、奥歯に何かはさまったような書き方からして、本書では書けないことがたくさんあったのでしょう。
 表向きに要約してみると、ぜひとも世界戦がしたかった赤井と世界戦に負ければすべてが終わってしまうのを危惧してそれを引き伸ばし続けた津田の確執、というように読み取れます。
 ボクシングジムで儲けようとすれば、看板選手を次から次に作らなければなりません。
 大人気選手である赤井にはスポンサー、テレビ局がついていましたが、彼がいなくなるとジムの経営が危うい。
 一方では赤井を育てたと自負のある津田にとっては、赤井英和に頼りきっている状態が我慢ならなかったのでしょう。
 赤井にとっては、ジムが小さなうちから盛り立ててきた自分をないがしろにする津田の姿勢に、不審を覚えたのは仕方のないことです。
 しかしね、本書に書かれている表向きの要因をいくら吟味しても、リング上で死にかけた赤井の救急車に同乗せずに、ジムの選手の次の試合を観るほうを選んだ津田の心の奥底と、ふたりの確執の真相はわかりませんね。
 何かもっと本書に書けないようなドス黒いものがあったのではないでしょうか。
 それとも、津田はただ単に赤井のことを嫌いだったのかしれません。
 ボクシングジムの経営で成功して金持ちになってやるという打算的な野望よりも、津田の人生にはボクシングのことが心底好きだという誠がうかがえるだけに、出会ったときから実はふたりは人間としてすれ違っていたのかもしれませんね。
 人間関係は腐る。ある意味本書ほどこのことを知らしめてくれる書物はありません。


 
 

 
 
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