「百年文庫 空」北原武夫/ジョージ・ムーア/藤枝静男

 百年文庫ナンバー55のテーマは「空」。
 地球のあらゆる場所はどこでも空でつながっているということですわ。
 あるいは逆説的に、空でつながっているのにまったく違う世界である、物理的に閉ざされているとか。
 同じ空の下なのに人それぞれ感情が違うとか、感じ方も違います。
 地球の表面である土も同じくどこともつながっているのですけども、「空」を使えば何か雄大に感じられる。
 ロマンチックですよね。
 なぜでしょうか。いつも靴の裏で踏んでる土よりも手の届かない空に憧れがあるのでしょうかね。
 なんとも人間らしいな(笑)
 圧倒的な空の下でアリンコのような人間が紡ぐ物語が3篇。
 空にとっては些少でもアリンコにとってはそれがすべて。

「聖家族」北原武夫(1907~1973)
 不思議な物語です。結末は何であったのか、人それぞれ思うところは異なるでしょう。
 昭和12年春、瀬戸内海の小さな島で小学校の教員をしていた26歳の生駒いくのは、景色を見ているうちにどうしても教員をやめなくてはと思いたち、その足で校長先生に辞職を願い出て、年老いた母と弟を置いて東京に向かいました。
 彼女は画家を志しており、大胆にも有名な洋画家である有馬邦彦画伯の邸宅に押しかけて住み込んでしまいます。
 そのうち人間はどうしても貧乏をして生きていかねばならないという思想を持ったいくのは、画伯の邸宅を出、納豆の行商をしながら路端で肖像画を描く生活を始めましたが、客の紹介で不幸のどん底にいるような男・赤井啓介と結婚、息子の太郎をもうけました。いくのは託児所「光の家」を開業し、束の間の充実した生活を送りますが、夫の赤井が女をつくって駆け落ち。
 戦火が押し寄せ、有馬画伯の鎌倉の別荘で太郎と一緒に住み込んでいるとき、貧乏画家の田島順吾と再婚。
 働きすぎを田島にたしなめられたいくの、太郎と田島の3人は自給自足の極めて原始的な生活を送ります。
 そして巻末の何やら暗喩めいた3人の出発、その日は昭和20年8月15日終戦の日だったというわけです・・・
 うーん、最後の解釈に尽きるのではないですかね。私は不思議に感動したというか、印象に残る作品でした。
 この物語の根底のテーマが宗教的なものであったとするなら、人生における最期、死と再生まで描かれていたと見るべきでしょうが・・・


「懐郷」ジョージ・ムーア(1852~1933)
 アイルランド移民のジェイムズ・ブライデンは貧民街の酒場勤めで体を壊し、14ねんぶりに故郷であるアイルランドの村に帰郷します。そこではヒーローでした。若いうちにアメリカへ行かなかったのがみんなの悔いの種である貧しい故郷では、場末の貧民街で生活を余儀なくされていたブライデンでさえ、金持ちであったのです。彼のアメリカでの実生活も知らずみんなが羨むなか、ついには婚約者まで現れますが・・・一方でどうしてもブライデンはアメリカに帰りたくなってしまいます。
 最期に思い出したのがマーガレットだったというオチが、理解できないようで理解できる気がしませんか。
 彼にとって故郷とは田舎ならではの無垢な良心だったのかもしれないですね。
 いや、誰にとってもそういうものかもしれません。故郷とは土地ではなく人、なのかな。自分を待ってくれている人がいなくなれば、そこはもうあなたの帰る土地ではないのかもしれません。


「悲しいだけ」藤枝静男(1908~1993)
 小説というより随筆ではないですかね。名随筆だと思う。
 3ヶ月前、妻を亡くした私。結婚生活39年の間、妻が健康だったのは最初の4年間だけでした。妻は戦争末期に結核を宣告されて以来、35年間で8回の長期入院と5回の手術を強いられました。その末、亡くなったのです。妻が楽になったという思いと悲しさでせめぎ合う私の心。しかし目的もなしに奈良へ一人旅などをしているうちに、悲しいという感覚が塊となって、物質のように実際に存在していることを悟るのです。
 作者は医者ですから、またちょっと死に対する感覚が違うかと思いますが、ここで語られているのは語り口調こそ医者で作家のものでありながら(冷静)、長年の連れ添いとしてどうしようもない爆発するような悲しみが内在されているようでなんとも言えないです。


 


 
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