「神々の山嶺」夢枕獏

 日本における山岳冒険小説の金字塔とでもいうべき作品です。
 原稿用紙1700枚の圧倒的ボリュームながら、まったく重さを感じさせない。
 プロット、リズムとも文句なし。キャラクターの数も丁度良く、掘り下げ度もよし。
 史実をまじえた構成はミステリー感を生み、最後まで飽きさせません。
 そして何より秀逸であるのは、作者自らの体験を土台にしたリアルな山岳登攀の描写でしょう。
 我々一般人には、8千メートルを超えた世界のことなどまったく想像できません。
 そして想像ができないゆえに、その苦しさに実感が伴わず、情景が伝わってこないのです。
 8千メートルの高度で小便のために登山靴を履く(凍るので寝袋に入れている)行為は、下界で70キロの荷を背負ってビルの5階まで階段を使う行為よりも、体がキツイそうです。
 6千メートルの高度でさえ、長く滞在すると大量の脳細胞が死んでいくと言われています。
 ジェット気流、マイナス40度の大気、雪崩、落石。どれひとつ下界にいれば実感できません。
 空気が薄くなって肺がやられたり、手足の指が凍傷になるなど、まったく他人事です。
 しかし本作は違います。登場人物が登攀しているときに、読んでるこっちも酸素が薄くて息苦しくなります。
 登山家が愛する蜂蜜たっぷりの熱い紅茶を飲んでる場面など、、こっちも一息ほっとした気分になるのです。
 さらには、そうまでして思い入れたキャラクターの決死の登攀が成功するかどうかまったくわかりません。
 スパイミステリーじゃありませんからね。山岳小説において正義の味方は存在しません。
 すべては山の神々の思し召すところなのですよ。だから先がどう転ぶかわからない面白さがあるのです。
 
 簡単にあらすじ。
 1993年。日本のエヴェレスト登山隊に随行していたカメラマンの深町誠は、2人の死者を出すという失敗の遠征の帰路、ネパールの首都カトマンズの登山用品店で、ある古ぼけたカメラを見つけました。レンズにヒビが入っています。何気なく手に取った深町は、思わず戦慄を覚えました。そのカメラは、ベストポケット・オートグラフィック・コダック・スペシャル。1924年6月8日にエヴェレスト登頂目前の姿を目撃されて以来消息を絶った英国の伝説的クライマー、ジョージ・マロリーが所持していたのと同型のカメラでした。
 世界登山史上に永遠に残る最大の謎、1953年のエドモンド・ヒラリーによるエヴェレスト初登頂にさかのぼること29年、マロリーは人類で初めて世界最高峰エヴェレストに成功していたのか? このカメラが本物であれば、その謎が解き明かされるかもしれない。フィルムは入っていませんでしたが、カメラが存在するということは、どこかにフィルムもあるはずだ。フィルムには、なにものにも遮られないエヴェレスト山頂で微笑むマロリーの姿が写っているかもしれない・・・
 わずか150ドルでそのカメラを手に入れた深町は、このカメラがカトマンズにあった背景を追跡しようとします。
 その結果、紆余曲折の末たどり着いたのは、現地でピカールサン(毒蛇)と呼ばれ、顔全体が紫外線によって黒ずみ、シェルパ族にしか見えない謎の男でした。そしてこの男の正体は、羽生丈二という日本の伝説的クライマーだったのです。
 謎のカメラは羽生が所有し、盗まれて登山用品店へ転売されたものでした。
 数々の栄光を国内外で打ち立てた羽生は1985年、日本のエヴェレスト遠征隊に参加しましたが、登頂のアタックメンバーに選ばれなかったことを不本意として、無許可で下山し、それから行方知れずとなっていました。
 その羽生がネパールにいる。おそらく50歳手前になっているはず。しかし、彼の容姿からは現役の登山家が醸し出す雰囲気が漂っていました。
 当初、接触することを頑なに拒絶された深町でしたが、もはやマロリーのカメラに対する興味よりも、この恐るべき登攀技術を持った型破りな日本人クライマーの人生そのものに引き寄せられていくのです。
 はたして羽生がネパールで狙っていたものとは・・・
 不可能と言われている、世界初のエヴェレスト南西壁冬期無酸素単独登頂なのか、あるいは!?

 マロリーのことを知っていれば10倍楽しく読めます。
 トム・ホルツェルの「エヴェレスト初登頂の謎」は作中にも登場するので、読んでおいて損はありません。
 だいたい私自体が、本作を読むためにジョージ・マロリーを勉強したのです。
 本作はマロリーの謎がテーマとなっていると事前に知ることができましたからね。
 私は「エヴェレスト初登頂の謎」、それからマロリー遺体発見後の「そして謎は残った」、ジェフリー・アーチャーの「遙かなる未踏峰」という順番で読んできて本作にたどり着きましたが、刊行順に本作を「そして謎は残った」の前に読んでもいいかもしれません。そうすると、「そして謎は残った」という本に別の意味で含みが出るかもしれませんから。
 本作の刊行は1997年で、エヴェレスト北東陵頂上付近でマロリーの遺体が発見される2年前に書かれています。
 ですから王洪宝が見たという8100メートル付近の岩陰の遺体をアーヴィンではなくマロリーのものとして書いていますが、事実と食い違っているのはその点くらいで、現実にマロリーの遺体の装備品にはカメラはありませんでしたから、本作の展開と同じくアーヴィンと見られる岩陰に残る未発見の遺体のほうに、カメラがあるのでしょう。おそらくフィルムも。

 まあ、マロリー抜きでも十分面白いけどね。
 ある意味、登山の真髄に触れることができる本だと思う。
 なぜ、山に登るのか? それはきっと生と死が間一髪で張り付いているような、命がありのままで吹きさらしになっているような世界での濃厚な時間を体験してしまったら、下界で過ごす生活はなんとも味気ない希薄なものであるからではないですか。
 ある意味、中毒なんだよね。危険中毒。
 一番印象に残ったのは、最後に羽生が深町のチョコレートとひとつかみの干しぶどうを持っていたことです。
 やっぱり、たとえ帰ってこなくても、登頂に成功していたならば意味があると思ったなあ。
 「生きて帰ってこなければ登頂に成功したことにはならない」という意見が著名な登山家を含め大勢を占めることはわかっていますが、私は帰りに死んでも意味があると思う。
 なぜなら、人間はいつか死ぬものだからですよ。成功してもいつか死ぬんですから、生きている間に成し遂げたことは成功に違いないと思うんですよね。
 みなさんは本作を読んでどう思われるでしょうか。


 
 
 
 
 
 
 
 
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