「防空駆逐艦『秋月』爆沈す 海軍予備士官の太平洋戦争」山本平弥
日の丸の旗の下では死ねるが、軍艦旗の下では死にたくない。
“船のプロ”商船学校出身士官の太平洋戦争
明治17年、日本政府はイギリスを真似て海軍予備員制度を作りました。
これは高等商船学校(現在の商船大学)の卒業者を、戦争時に海軍士官として徴用するという制度です。
艦船を動かすには高度の航海術や機関術が必要ですが、そのための士官を平時に大量に抱えておくことは、予算的に無理です。ですから平時にはプロの軍人でまかない、いざ戦争になると商船のプロを予備士官として補充するという考えでした。
日本は四方を海に囲まれた国であり、航空路が未熟な時代にあって、海路は国家の命綱でした。
必然、日本は当時世界第三位の海運国であり、海運に従事する海員の質は非常に高いものだったのです。
しかし、彼らは平和の海で活躍すべき職種です。
心ならずも、強制的に殺人兵器である軍艦に応召される葛藤はいかばかりであったでしょうか。
太平洋戦争では東京、神戸の両高等商船学校卒業者の約2700名が海軍に応召され、900名を超える方が亡くなりました。著者の卒業した東京高等商船学校機関科第111期生は、なんと31名中18名が戦死されています。
応召中に、海軍予備士官からプロの軍人である海軍士官に転属できる制度もありましたが、それを利用したのはわずか20数名であったようです。ほとんどの商船学校出身の予備士官たちは“商船乗り”の誇りを矜持したまま、戦争を闘ったのです。
日の丸の旗の下では死ねるが、軍艦旗の下では死にたくない。これが船のプロとして誇り高き彼らの偽らざる心境だったのではないでしょうか。
秋月型防空駆逐艦「秋月」
昭和17年6月竣工
公試排水量 3470トン
34ノット
10センチ高角砲 最大仰角90度
1門当たり発射速度毎分19発
最大射高1万4千7百メートル
商船学校を卒業して少尉候補生になった著者は、昭和18年9月に応召され、重巡「足柄」に配属されました。
足柄では、機関科の分隊士や工作科の分隊士を務め、昭和18年11月から10ヶ月半を足柄で過ごします。
ガンルームでは、アブラ海に伊58潜から回天特攻して大戦果を上げた石川誠三少尉がいました。
このときのエピソードとして初めて聞く話だったのは、マリアナ沖海戦の敗戦を受けて、軍令部ではサイパン島に戦艦「山城」、重巡「那智」「足柄」で水上特攻を仕掛ける案があったらしく(イ号作戦)、出撃寸前で中止になったらしいのです。
行ったら絶対に助からないだろうと足柄の艦内では話されていたらしいですが、この案を企画したのは無謀で有名な神重徳大佐であり、これが後の大和水上特攻の母案となったのではないかというのですね。
神重徳は「山城でサイパンの砂浜に乗り上げて撃ちまくる」と言っていたらしいですが、理系の著者に言わせると、砂浜に乗り上げた時点で軍艦の主砲は動かなくなるものであって、これくらいの道理がわからない人間が海軍の上層部にいたのは呆れるとのことでした。神さんは栗田さんの代わりにレイテ行けばよかったんじゃね? 阿呆だよね相変わらず。何人の尊い命を犬死させたのだろう。戦後すぐに死んでよかったわ。
昭和19年9月、著者は志願して危険な駆逐艦乗りになります。駆逐艦「秋月」の缶指揮官(機関科分隊士)です。
そして運命のレイテ決戦に小沢機動部隊の空母護衛艦として出撃するのです。
「秋月」が爆沈したのは、昭和19年10月25日の午前8時頃でした。
缶室が吹き飛び、高熱蒸気が充満するなか、著者は顔も手足も肺も焼ける重傷で命からがら甲板に上がるのですが、その模様は冒頭に書かれている通り、凄惨の一言に尽きると同時に、これほどまで生死の現場を迫真に満ちた描き方をしている戦記は今までに読んだことがありませんでした。機関は艦底ですから、艦が撃沈されると助かる可能性が低いわけで、著者のように奇跡的に生き残った方の記録が少ないのかもしれませんけど、すごかったように思う。
著者は駆逐艦「槇」に救助されましたが、槇の石塚栄艦長は司令部の命令でなく独断で秋月の救難に向かったのだそうです。その後、中城湾に逃げ延びるまで槇は敵機の直撃弾を3発食らうのですが、機関が心配で重傷なのにアドレナリンによる興奮で艦橋に這い上がった著者を石塚艦長は「負傷者は下がれ!」と一喝、艦橋で仁王立ちになって踏ん張ったそうで、このときの体験談も鬼気迫るものでした。
海軍病院に入院した著者は以後第一線を離れ、練習艦「八雲」や砲術学校の教員配置を務め、終戦となりました。
戦後も海一筋で、海上保安学校の校長を奉職されています。
戦後数十年、秋月はなぜ突然爆沈したのか、ミステリーとされていました。
敵潜水艦による雷撃、味方母艦に向かう魚雷に体当たりした、味方による誤射などの説もあり、公刊戦史にもはっきりとした沈没原因は記されていなかったようです。
しかし、本書で著者は理系の才能と爆発時の自身の体験、秋月生存者の証言などから、ほぼ沈没原因を特定しています。それは、秋月の激しい対空射撃の間隙を突いて後方から侵入した敵爆撃機による直撃弾が、魚雷発射菅のあたりに炸裂して魚雷が誘爆したものということでした。
米軍も恐れる高性能の防空艦だった秋月爆沈のミステリー解明、そして海軍予備士官としての艦船従軍経験、貴重な機関室士官の体験談など、何より筆力があって読みやすいですし、本書は戦記として読む価値の非常に高い一冊に仕上がっています。
“船のプロ”商船学校出身士官の太平洋戦争
明治17年、日本政府はイギリスを真似て海軍予備員制度を作りました。
これは高等商船学校(現在の商船大学)の卒業者を、戦争時に海軍士官として徴用するという制度です。
艦船を動かすには高度の航海術や機関術が必要ですが、そのための士官を平時に大量に抱えておくことは、予算的に無理です。ですから平時にはプロの軍人でまかない、いざ戦争になると商船のプロを予備士官として補充するという考えでした。
日本は四方を海に囲まれた国であり、航空路が未熟な時代にあって、海路は国家の命綱でした。
必然、日本は当時世界第三位の海運国であり、海運に従事する海員の質は非常に高いものだったのです。
しかし、彼らは平和の海で活躍すべき職種です。
心ならずも、強制的に殺人兵器である軍艦に応召される葛藤はいかばかりであったでしょうか。
太平洋戦争では東京、神戸の両高等商船学校卒業者の約2700名が海軍に応召され、900名を超える方が亡くなりました。著者の卒業した東京高等商船学校機関科第111期生は、なんと31名中18名が戦死されています。
応召中に、海軍予備士官からプロの軍人である海軍士官に転属できる制度もありましたが、それを利用したのはわずか20数名であったようです。ほとんどの商船学校出身の予備士官たちは“商船乗り”の誇りを矜持したまま、戦争を闘ったのです。
日の丸の旗の下では死ねるが、軍艦旗の下では死にたくない。これが船のプロとして誇り高き彼らの偽らざる心境だったのではないでしょうか。
秋月型防空駆逐艦「秋月」
昭和17年6月竣工
公試排水量 3470トン
34ノット
10センチ高角砲 最大仰角90度
1門当たり発射速度毎分19発
最大射高1万4千7百メートル
商船学校を卒業して少尉候補生になった著者は、昭和18年9月に応召され、重巡「足柄」に配属されました。
足柄では、機関科の分隊士や工作科の分隊士を務め、昭和18年11月から10ヶ月半を足柄で過ごします。
ガンルームでは、アブラ海に伊58潜から回天特攻して大戦果を上げた石川誠三少尉がいました。
このときのエピソードとして初めて聞く話だったのは、マリアナ沖海戦の敗戦を受けて、軍令部ではサイパン島に戦艦「山城」、重巡「那智」「足柄」で水上特攻を仕掛ける案があったらしく(イ号作戦)、出撃寸前で中止になったらしいのです。
行ったら絶対に助からないだろうと足柄の艦内では話されていたらしいですが、この案を企画したのは無謀で有名な神重徳大佐であり、これが後の大和水上特攻の母案となったのではないかというのですね。
神重徳は「山城でサイパンの砂浜に乗り上げて撃ちまくる」と言っていたらしいですが、理系の著者に言わせると、砂浜に乗り上げた時点で軍艦の主砲は動かなくなるものであって、これくらいの道理がわからない人間が海軍の上層部にいたのは呆れるとのことでした。神さんは栗田さんの代わりにレイテ行けばよかったんじゃね? 阿呆だよね相変わらず。何人の尊い命を犬死させたのだろう。戦後すぐに死んでよかったわ。
昭和19年9月、著者は志願して危険な駆逐艦乗りになります。駆逐艦「秋月」の缶指揮官(機関科分隊士)です。
そして運命のレイテ決戦に小沢機動部隊の空母護衛艦として出撃するのです。
「秋月」が爆沈したのは、昭和19年10月25日の午前8時頃でした。
缶室が吹き飛び、高熱蒸気が充満するなか、著者は顔も手足も肺も焼ける重傷で命からがら甲板に上がるのですが、その模様は冒頭に書かれている通り、凄惨の一言に尽きると同時に、これほどまで生死の現場を迫真に満ちた描き方をしている戦記は今までに読んだことがありませんでした。機関は艦底ですから、艦が撃沈されると助かる可能性が低いわけで、著者のように奇跡的に生き残った方の記録が少ないのかもしれませんけど、すごかったように思う。
著者は駆逐艦「槇」に救助されましたが、槇の石塚栄艦長は司令部の命令でなく独断で秋月の救難に向かったのだそうです。その後、中城湾に逃げ延びるまで槇は敵機の直撃弾を3発食らうのですが、機関が心配で重傷なのにアドレナリンによる興奮で艦橋に這い上がった著者を石塚艦長は「負傷者は下がれ!」と一喝、艦橋で仁王立ちになって踏ん張ったそうで、このときの体験談も鬼気迫るものでした。
海軍病院に入院した著者は以後第一線を離れ、練習艦「八雲」や砲術学校の教員配置を務め、終戦となりました。
戦後も海一筋で、海上保安学校の校長を奉職されています。
戦後数十年、秋月はなぜ突然爆沈したのか、ミステリーとされていました。
敵潜水艦による雷撃、味方母艦に向かう魚雷に体当たりした、味方による誤射などの説もあり、公刊戦史にもはっきりとした沈没原因は記されていなかったようです。
しかし、本書で著者は理系の才能と爆発時の自身の体験、秋月生存者の証言などから、ほぼ沈没原因を特定しています。それは、秋月の激しい対空射撃の間隙を突いて後方から侵入した敵爆撃機による直撃弾が、魚雷発射菅のあたりに炸裂して魚雷が誘爆したものということでした。
米軍も恐れる高性能の防空艦だった秋月爆沈のミステリー解明、そして海軍予備士官としての艦船従軍経験、貴重な機関室士官の体験談など、何より筆力があって読みやすいですし、本書は戦記として読む価値の非常に高い一冊に仕上がっています。
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