「覇王の番人」真保裕一

本当のところはどうだったんでしょうねえ。
タイムマシンなんてものがもしもあったら、時間を遡って見てみたい歴史上の出来事はたくさんあります。
坂本龍馬暗殺の現場とか、ミッドウェー海戦の真相とか。
では、中世日本の大きなターニングポイントとなった『本能寺の変』はどうでしょうか。
明智十兵衛光秀、またの名を惟任日向守が、天下人であった織田信長を討ち取った歴史上の大事件。
間違いなく、日本史の流れが変わった出来事ですからね。信長があのとき死んでいなかったら、今の日本は違う姿をしていたかもしれません。
明智光秀は、織田家中では羽柴秀吉と並び名将の誉れ高かった武将です。
生地である美濃を出てから流浪し、越前朝倉氏に約4年仕えたのち、将軍足利義輝の弟である足利義昭を奉じて、武力を頼るため尾張の織田信長に仕官したときには光秀はもう40歳になっていました。
もちろん将軍の幕臣であったわけですから、生半可な出自ではありません、美濃の名家の生まれです。
文武両道に優れ、老境に入る40を超えてから出世を重ね、15年も織田家に仕えた光秀が何ゆえに謀反を起こしたのでしょうか。これが謎なのです。
たとえて云えば、中年になってから伸び盛りのベンチャー企業に入社し、このおっさん誰やと若い同僚に睨まれるのもつかの間、実力で業績を伸ばし、あれよあれよという間に取締役にまで昇りつめた男がなぜ会社が日本一の規模になる直前に6歳下の創業家社長を斬り殺したのでしょうか。
そんなに腹が立ったのでしょうか。妻は亡くなったとはいえ、縁組で織田家中に入り組んだ娘息子の事後を顧みれないくらいに激高する出来事があったのでしょうか。あるいは、55歳の老境にして天下への渇望が湧き出たとでもいうのでしょうか。
陰謀論ではありませんが、本能寺の焼け跡から信長の死体が発見されなかったことや、明智光秀自身の屍骸の存在が曖昧なこともあって、その真相を巡りきっと永遠に論争が繰り広げられる、それがこの『本能寺の変』なのです。

作者の真保裕一(しんぽゆういち)の歴史・時代小説を読むのは初めてでした。
工作員の立てこもるダムの設計や、ニセ札を刷る印刷機械の構造の説明に100ページも200ページも費やすようなうんざりと辟易させられる作風という印象が強かったのですが、あれは歴史を書くには向いているとも思っていたのです。
はたして、この小説面白かったですよ。上下巻のボリュームで、作者ならではのねっちり、きっちりした書き方がよく合っていたと思います。織田信長、明智光秀の生涯の事蹟をこれほど詳しく読めた小説というのは初めてでしたし、脇役である足利義昭をここまで描き込んだ小説というのも珍しいと思いましたね。
大河ドラマの影響でしょうか、私の頭には信長は渡哲也、義昭は玉置浩二、秀吉は竹中直人というイメージしか思い浮かばないのですが、明智光秀だけはどうもドラマのイメージとは重ならない気がします。
信長は有吉弘行ばりの毒舌で、秀吉を“はげねずみ”、光秀を“キンカン頭”と呼んでいました。なかなかいいセンスでしょう?当時日本にゴリラがいれば柴田勝家もそう呼ばれていたことでしょう。私は、このキンカン頭というのが気になるのです。どういう禿げ方なのかわかりませんが、光秀はこれまで大河で演じられてきたような優しくて苦みばしって幸薄い男前のおっさんというキャラクターではない気がします。
もっとうさんくさい、煮ても焼いても喰えないような狷介な男だったのではないでしょうか……

ま、本作の主人公である明智光秀は良い男です。それはそれできっと正しい。
そして信長と朝廷との丁々発止のやり取りを根拠とした様々な陰謀をこの物語で説いたのは素晴らしいと思います。信長のやり方は180年前の足利義満を彷彿とさせる朝廷への恫喝の仕方でした。そして義満も信長も結果的に謎の死を遂げたことになります。もうひとつ、法華宗信者であった信長に対する宗教戦争という見方でこの時代の近畿の内乱を描いたのも私には新しいことでした。信長は延暦寺を焼き討ちし、本願寺とは激しくやりあいました。そして法華宗の本能寺で死んだのです。朝廷に宗教、型破りな信長といえど様々なものに絡みとられていたのです。
そして、この小説で外せないのが、“忍び”です。もうひとりの主人公である小平太と玉子の中庭でのささやかな密会の場面はじーんとしました。
実際に光秀が甲賀忍者を束ねていたのかはさておき、本能寺という罠に光秀が陥れられたという作者の結論が事実なら、忍びの者の暗躍が実際に繰り広げられたことでしょう。
また、光秀が信長を討った理由としてよく語られている、丹波の八上城において光秀の母が人質となって波多野に殺されたことは史実とはいえないとして本作では取り上げられておりません。甲斐の武田家を滅ぼしたあとの宴会で光秀が「我らも骨を折ったかいがあった」と言ったのが信長の癪に障って蹴られた一件は書かれています。
もうひとつよく論じられているのが、光秀が安土城で徳川家康を接待したときに腐った魚(鮒鮨とも)を膳に出して信長の不興を買ったという一事ですが、これは驚くべき陰謀に姿を変えこの物語のクライマックスの幕開けとなっていきます。

「ときは今、あめが下なる、五月かな」
(光秀は美濃土岐一族。あめが下なる=天下?。五月は源氏が平氏が大事な戦を挑んだ月。明智家は源氏、信長は平氏)

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「無双の花」葉室麟

「お前様――」呼びかける誾千代(ぎんちよ)の声がかすれた。
「お前様は西国無双の武将にございます。必ずや返り咲いて、誰にも負けぬ無双の花を咲かせてくださりませ」
「言うまでもない。そのために京に上るのだ」
宗茂は立ち上がると、襖越しに、
「そなたを迎えに参る日が必ず来よう。それゆえ、さらばとは言わぬぞ」と告げた。
「お待ちいたしておりまする」誾千代は頭を下げた。

結論から云えば、この幼馴染の夫婦は今生で二度とあいまみえることはありませんでした。
しかし、“無双の花”は見事に咲いたのですよ。関ヶ原の戦いで敗将となり領地を没収されてから、再び旧領を回復されたのはこの人しかいません。
筑後柳川十三万石領主・立花宗茂。永禄10年(1567)生まれ。同年には伊達政宗、真田幸村がいます。
宗茂は、豊後の守護大名大友宗麟の家臣である高橋紹運の嫡子として生まれ、立花(戸次)道雪の娘である千代(ぎんちよ)の婿となって、男子に恵まれなかった立花家の後を継ぎました。
高橋紹運も立花道雪も錚々たる戦国武将です。「信長の野望」をやったことのある人ならわかりますよね。まさに宗茂はサラブレッドといっていいでしょう。朝鮮出兵の折には小早川隆景の薫陶もうけたようですし、戦の強さのみならず、連歌、茶道、書道、蹴鞠の素養もありました。
大友家の家臣であった立花宗茂ですが、1586年の島津との戦いで抜群の武功を立て、豊臣秀吉から「その忠義鎮西一、剛勇また鎮西一」と激賞され、筑後柳川に領地を得て大友家から独立した大名となりました。
朝鮮での「碧蹄館(ピヨクジエグァン)の戦い」では先陣を務め、明・朝鮮連合軍の大軍を寡軍でもって打ち破り、また蔚山(ウルサン)城での戦いで5万を超える敵に包囲され窮地に陥った加藤清正軍を、わずか1千の兵でもって敵本隊を夜襲し救援しました。桃形兜に金箔を押した“金甲”と呼ばれる煌びやかで勇ましい立花家の軍装は、宗茂の西国無双の武名とともに日本全国の百戦錬磨の武将たちに知れ渡ったのです。
しかし、“立花の義”と称される、己の身が危うかろうとどこまでも裏切らぬ、戦国の世において稀有な感性が仇になったのが関ヶ原の戦いでした。
太閤への恩義のため関ヶ原で石田三成方の西軍についた立花宗茂ですが、関ヶ原の戦場には出ておらず、立花軍が京極高次が籠る大津城を攻め落としたばかりのころに関ヶ原の敗報が届きました。立花軍は急ぎ大坂に引き上げ、宗茂は西軍総大将毛利輝元らに大坂城での篭城を説きましたが聞き入れられず、失意のまま大坂から九州へと船で戻りました。
そして、九州に戻った立花軍を待っていたのは、恐るべき包囲網でした。
西軍から急遽寝返り、家康の命を受けて肥前から三万五千の兵を進めてきた鍋島直茂。豊前、豊後から迫り来る名将・黒田如水二万。朝鮮出兵の際に恩があり仲が良いとはいえ、南の肥後からは加藤清正軍二万もゆるりと進軍してきたのです。
緒戦の鍋島との戦いで浮き足立って初めての敗戦を喫した立花軍は、ついに和睦に踏み切りました。
そして、徳川家康は宗茂を許すことなく、その領地である筑後柳川十三万石を没収しました。
ここに、立花宗茂とその主従二十余名の長く苦しい流浪の日々と旧領回復という大逆転劇がはじまるのです。

正室・千代はじめ立花家家臣は仲の良かった肥後領主加藤清正の世話になったものが多かったようです。
はじめは宗茂も肥後に寄寓していましたが、家康に謁見を請うため京に上りました。冒頭の会話はこのときのものです。結果的に宗茂は徳川の拠点である江戸まで出て行くことになります。もちろんすぐに結果が出たわけではありません。「すみません」「じゃあ許してやる」と簡単にいくわけありません。喰うものにも事欠く牢人生活でした。
しかし、同じように西軍について旧領を没収された長宗我部盛親が不穏な行動をとったのに比べ、宗茂はけっしてそんな軽挙妄動をしませんでした。立花の義を守ったのですね。
慶長11年(1606)、五千石を家康から拝領されるとすぐに東北の南郷(現在の福島県棚倉辺り)に一万石加増され、4年後の慶長15年には三万石の領地を得ました。そして、わずか60騎ですが、大坂の陣では二代将軍となる秀忠の側近として詰めたのです。つねに家康は秀忠のそばに宗茂をつけていました。英才教育みたいなものだったのかもしれません。
そして九州を去ってから約20年、元和6年(1620)11月、筑後柳川十一万石を再封されるのです。

常にまっすぐなんですよね、この人は。まったくぶれない。
我慢をしているのではなくて、これが当たり前だと思って生きていたんだと思います。
だから加藤清正はじめ真田幸村、本多忠勝、伊達政宗らいろんな人間から一目置かれ信じられてきた。
作者の脚色がどこまで及んでいるのかわかりませんが、この時代につましい牢人の身分から旧領回復などという奇跡的な離れ業が起こったのは、あんがいこの小説に近い事実ではなかったのかと思えます。ましてや、もう死んでいたとはいえ家康はドケチですからね。いったん取り上げたものを返すはずがない(笑)。
ただ、もう少し“厚く”書いてほしかったと思います。それは直木賞受賞作『蜩ノ記』(カテゴリー直木賞受賞作参照)でも感じたことです。
もうひとつ人間描写に厚みが足りません。だからそのぶんだけ感動が薄くなります。
嘘でもいいから、厚く固まった歴史小説を読ませてください、お願いします。











「チャイルド44」トム・ロブ・スミス

「私は信じなかった。私は嘆き悲しむ遺族を前にして、こう言ったんです。あんたたちの息子は殺されたんじゃないと。そう、私も信じなかった。だから、殺されたなどというのはでたらめだと言った。でも、そうやっていったい何件の事件が隠蔽されてると思います?それを知るすべはありません。もうわかりようがない。われわれの法のシステムはむしろこの殺人鬼が好きなだけ殺すのを手伝ってる。だから、こいつはまたやるでしょう、何度も何度も。その間、われわれは見当はずれの人間を逮捕しつづけるんです。無実の人々を」

この小説が成功した理由として一番に考えられるのは、ロシアを舞台にしたということでしょう。
しかも、今のロシアではありません、1953年大元帥スターリンが亡くなる直前のソヴィエト連邦がこの物語の背景です。
そしてこの小説は、共産主義体制に反抗する社会小説でも、クレムリンの赤い壁を突破するスパイ小説でもありません。
酒に酔っているにもかかわらずスターリンをネタにしたジョークを言っただけで強制労働20年、役所のくず籠の中身は念入りに選ばれたものばかりで本当に捨てたいものは家に帰る途中でこっそり捨てられている、第二次世界大戦(ソ連では大祖国戦争という)が終わったばかりなのにさらに困難が続く暗黒ロシアにおける犯罪捜査小説なのです。
治安機関は、ひとりのスパイに逃げられるより10人の無実の人間を苦しめるほうがどれほどかましなことだ、という価値観を持っているのです。国家の前に一人の個人の存在など無に等しかったのです。
そんな時代に連続少年少女殺人事件が起きるとどうなるのか。
まず、その殺人犯の動機が捜査機関にはわからないのです。人を殺すなら戦争か、強制収容所でいくらでも殺せるのに非公式に殺人を繰り返す理由がわからない。しかも、ソヴィエト社会には犯罪は存在しないという建前がありました。それぞれの土地で起こった殺人事件は、その関連性を問われることなく個々の事件として適当な実行犯が仕立て上げられたり、あるいは事件の存在すらなかったことにされていたのです。
その真実を暴こうとすれば、その捜査員は体制を揺るがすものであるとされて処罰されます。

レオ・デミドフは国家保安省(KGBの前身)の上級捜査官でした。
彼もまた、ソヴィエト体制に従順であり、数え切れない無実の人間を収容所送りにしてきました。
部下の息子が鉄道の線路近くで切り刻まれて死んでいても、死体を見ることさえなく事故であると隠蔽しました。
そんな彼が、彼自身が逃走劇の末スパイ容疑で逮捕した獣医・アナトリー・ブロツキーが処刑された一件を機会に少しずつ変わってくるのです。尋問の結果、この男は無実であると確信していたのでした。
決定的だったのは、レオの妻であるライーサにスパイ容疑がかかったことです。妻の代わりなどいくらでもいるじゃないか、妻を差し出せと同僚は進言しました。しかし、レオは保安省に対し「妻は無実である」と宣言するのです。これは国家に対する反抗でした。レオは処罰を免れ得ない身となりました。両親は仕事を剥奪され、住んでいたアパートを追い出されました。
それでもいくらか幸運だったのは、スターリンの死去により国家機関の決定に躊躇が生まれたおかげでレオとライーサは収容所送りにはならず、モスクワのはるか東ウラル山脈の向こうにあるヴォウアルスクに飛ばされたことです。レオは保安省捜査官の身分を剥奪されて地元の人民警察の巡査という大降格を受けながらも表向きは自由でした。
そして、ヴォウアルスクに起きた少女殺人事件を調べるうちに、レオの中に真実を追求する刑事魂が生まれていくのです。それは個の存在を無視するソヴィエト体制に対し個人の尊厳を回復するものでした。彼はこの事件が同一犯による連続少年少女殺人事件であるいうことを見抜き、亡くなった子供たち、そして今現在危険にさらされている子供たちのために危険極まりない単独捜査を開始するのです。
仲間も出来ました。レオが保安省の捜査官時代には本音を見せなかった妻のライーサとは、彼が身分を失い個の存在になったことで真の愛情を回復しました。ヴォウアルスク人民警察署長ネステロフは逡巡の末、レオに協力することを誓います。
彼らの追う44件の連続事件とは、少年少女がひもで足首を縛られたうえ、胃袋が切り取られ、口の中には木の皮が詰め込まれているという猟奇的な共通点があり、モスクワの南ロストフ・ナ・ドヌーを起点として鉄道の沿線上で発生していました。文庫本見開きの地図は、発生地点をピンで刺したものです。何の絵かと思っていましたが……

様々な妨害。鉄のカーテンの向こうに繰り広げられる決死の捜査と逃避行。そして真犯人の正体を巡るミステリー。
初めての体験で、初めてのスリルに満ち溢れた、天才トム・ロブ・スミスのデビュー作です。
10歳のゾーヤと4歳のエレナはどうなったのでしょう。続巻が気になるところです。
あとがきによれば、この本、ロシアでは発禁らしいですよ。なんで今更???さすがロシア?




「本田稔空戦記」岡野充俊

その日わが407飛行隊総出で編隊を組み、訓練を兼ねて呉方面上空の警戒を行った。
柱島泊地には戦艦「大和」、空母「天城」など残り少なくなった残存艦隊が停泊していた。
これら艦船のほぼ上空に達した頃、突然、前方に白煙が見えた。やがてその白煙の数が増え、私はすごいあおりを受けた。機が激しく動揺し横滑りする。何事かと思って下を見ると「大和」の高角砲がいっせいに火を吹いてるではないか。私はすぐバンクをして味方識別をとりながら「大和」をめざして突っ込んでいった。
「日の丸が見えんのか、この馬鹿野郎」

昭和17年8月から翌18年5月まで居たラバウルでの撃墜数は自認43機。日本海軍戦闘機隊のエースパイロットであり、戦後は三菱重工で戦後初となる国産双発機MU-2のテストパイロットとして開発に多大な貢献をした撃墜王・本田稔の5年余にわたる空戦の記録を、予科練の後輩であり同じ三菱重工の社員であった岡野充俊が口述体験談としてまとめたものが本書「本田稔空戦記」です。
本田稔は熊本県出身。昭和14年10月第5期海軍甲種飛行予科練習生。卒業後の教育課程は、中練谷田部、実施大分。谷田部空では、日本の張飛といわれた菊池哲生教員の猛訓練をうけてしごかれました。このときの経験が生き残ることができた糧になったと書かれているように、精神注入棒(バッタ)による海軍式のしごきもある意味必要であったとしているのが今まで読んできた戦記とは少し趣がことなるかもしれません。操縦員と偵察員に振り分けられる操偵別検査では、教員の操縦により実際に空を飛んで空中で色んなテストが行われたようです。空中では思考力が落ちます。教員に「名前を書け」と言われたにもかかわらず3分の1の者が名前を書いていなかったらしいです。
本田稔は、飛行機乗りになるためには鋭い感覚、機敏な運動神経、とっさの判断力が要求されるが一番大切なことはどんな場合でも動揺しないこと、すぐ冷静になれることだと言っています。飛行機乗りの中でも極めて優秀であるから成れる戦闘機乗り、その中でも抜群であるから成れる撃墜王、そしてその中から戦争に生き残ることがどれほど難しいことか。本田はラバウルから引き上げる際に、本当は乗る予定だった一式陸攻の1番機に全財産の荷物を載せたまま、間違って2番機に乗ってしまったのですが離陸まもなく本来なら乗る予定だった1番機は墜落してしまいました。“運”だけではないですが、運がなければ生き残ることは難しい世界であった証左でしょう。
昭和17年1月、すべての教育を終えた本田が配属されたのは台南空と第3空から派遣されたマレー方面攻撃専門の新編成派遣戦闘機部隊“独立零戦隊”でした。ボルネオで初めて本田は零戦に搭乗します。しかし、ここでフラップを下げるのを忘れ着陸をやり直すこと11回。降りると見せしめに11回、バッタで殴られました。恥をかかされましたが、本田は「今に見ておれ、世界一の戦闘機乗りになってみせる」と逆に発奮しました。この根性と負けん気が、後に菅野、杉田なき紫電改戦闘機隊343空の最期に源田司令に頼られるまでに成長した所以であったかもしれません。
初撃墜は、サイゴン上空で相手は英軍のブルースター・バッファローでした。ちなみにそれより前の初めて敵と接触したときは、編隊の中でただひとり増槽を落とすのを忘れてまた怒られています。
バンコク、ラングーン(有名な陸軍の加藤隼戦闘機隊と同居)を転戦し、昭和17年7月に253空に転属され、いよいよソロモンへ。ラバウルからガダルカナルまでの往復8時間、じつに東京から下関までにあたる長躯の遠征を繰り返す地獄の消耗戦の始まりでした。このあいだ、初めて見たP-38を軽爆撃機と間違え8機相手に攻撃を仕掛けてやられそうになったり、山本長官撃墜事件では、ブインから真っ先に迎撃に上がったりしました。
昭和18年6月からは内地へ帰還し、横須賀航空隊で中島飛行機「零戦五二型」のテストパイロットを務めました。もともと零戦は翼幅が12メートル(一一型)でしたが、空母搭載用に翼端を50センチ折り曲げれる(二一型)、わざわざ折り曲げるのがめんどくさくて切った(三二型)、しかしこれでは航続距離が伸びないので再び翼を折り畳める(二二型)、そして戦局の推移とともに再び翼端の形状を変更したのが五二型でこれが結果的には零戦の中で最も多く生産されました。
昭和18年末、大分で教官をしたのち鹿児島361空407飛行隊の先任搭乗員としてフィリピン・捷一号作戦に参加。
そのまま松山で新たに編成された紫電改戦闘機隊343空に407飛行隊のまま横滑りしました。隊長は林喜重大尉(海兵69期)でそのまま、本田は分隊士になりました。宿舎の部屋は撃墜王・坂井三郎と同室でした。
苦労したB-29の迎撃方法(垂直背面攻撃)、菅野直大尉との思い出など343空の激闘の記録が語られていますが、本田が8月に鳴尾の川西航空機で領収した紫電改が343空に最期に補充された機体となりました。
玉音放送の後、今後の行動について決議をするため源田司令が出張したときには、ピストルを持参し随行しました。このあたり、あまたの歴戦パイロットなきあと、本田がいかに源田司令の信頼を得ていたかわかります。
当然、源田が「腹を切るからついてくるやつは来い」と言って残った22人の中に本田も入っていました。
実際は、一緒に死ぬという方便で源田が信頼できる人間を試したようで、この後22人は皇室の存続のため九州の山奥で一時活動をするようになったのです。




「百年文庫 釣」井伏鱒二・幸田露伴・上林暁

百年文庫、第12作目のテーマは「釣」です。
栞の紐も涼しげな水色で、つい先日解禁になった鮎の跳ねる川のせせらぎを思わせるかのようです。
私もまったく釣りをしないというわけではないんですが、あれは釣れない間ひまですからねえ。本を読みながらというわけにもいかないでしょ。だから頃合をはかって入れ食い間違いなしという状態でなければやりません。当然釣れた魚は毒魚でないかぎり何でも喰って酒の肴にします。一度こんな魚が日本にいたのかというのが獲れて手前勝手に調理して愛飲している合成酒とともにくいっとやったのですが、尻から腸が飛び出たのかと思うくらい激しい下痢に見舞われました。
たぶん私は人間的に釣りは向いてないと思います。釣りバカ日誌のすーさんではないですが、釣りというものは毎日とてつもなく忙しい人が暇人(閑人)を装って洒落でしてこそ格好がつくのではないですか。
私の頭の中では、海をいく漁船ではなく、本当に静かな湖の真ん中でカンドリ舟みたいな木舟からすっと竹竿を垂らしている、そう、魯山人みたいな姿が「釣」の理想として思い浮かぶのですがね。

「白毛」井伏鱒二(1898~1993)
 最後の文豪と云われた方です。なぜか私の頭の中では開高健と姿が重なるのですが、やはりこの方も釣りは好きだったようです。井伏鱒二といえば学校の教科書の太宰治の小説(富嶽百景だったかな?)で「井伏氏は放屁なされた」と書かれていたことがいまだに鮮明に覚えており、しばらくして井伏鱒二本人が「屁などしていない」と言ったと書かれているものを見たにも拘わらず、本当は大きいのを一発しなすったんじゃないだろうかとか、目的地に到着して本人の自覚もないまま腹が緩んだところを耳聡い太宰に聴かれたのではないか、などと私は邪推していたのです。
1948年発表の本作を読めば、なるほど屁をたれても何の不思議もない愛嬌のある姿が思い浮かびます。
作者は渓谷歩きの途中、見知らぬ青年二人に呼び止められます。すこしうろんな二人の青年は、初めての場所で釣りのポイントがわからないと言うのです。作者は彼らと昼食を共にしながら懇切丁寧にこの場での釣り方を説明するのですが、いつしかこの冗長さが青年のカンに触り、羽交い絞めにされてあろうことか白髪になった毛髪を35本も抜き取られてしまうのです。

「幻談」幸田露伴(1867~1947)
 1938年発表の作品。もとになっているのは江戸時代にあった話で、作者が先輩の釣師に聞いたらしいです。
年寄の船頭を伴い、毎日釣りに出かける江戸の非役の小旗本。2日続けて当たりのなかった帰路、2人は海面に奇妙なものを見かけるのです。それは細い棒のようなものでツイと出ては又引っ込んだりしていました。
近づいてみると、はたしてその正体は釣竿だったのです。そしてその根元はお客さん(溺死者)にしっかりと握られていました。江戸の常識で普通なら放っておくところですが、その釣竿があまりにも稀物の良い竿であったので、ついに旗本は竿を放さない水死体の指の骨を折ってそれを手に入れてしまうのです。翌日の釣りでは……

「二閑人交游図」上林暁(1902~1980)
 1941年の作品。二閑人のひとり小早川は作者自身がモデルであり、もうひとりの滝沢はドイツ文学者であった浜野修がモデルらしいです。この時期の日本は物騒だっただろうに、いかにもいなせでのんびりとした東京の風景や生活が郷愁を誘います。二閑人の、将棋、酒、釣り、風呂、そして金のやりくりを通した交遊が楽しそうに書かれているのは、小早川すなわち作者が、3,4歳年上である滝沢すなわち浜野に心底私淑していたからでしょう。
酒の飲み方、風呂の石鹸の使い方まで滝沢のやり方を“格好いい”と思う小早川ですが、滝沢の得意な釣りだけは始めようとしません。なぜでしょうか?ゴルフを絶対やらない人がいるのと同じ理由でしょうね。
読んでいるかぎり小早川は以後も釣りはやらない感じで似合いもしませんが、大人である滝沢に釣りが似合うのはなぜでしょうか。


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