「おれたちを跨ぐな! わしらは怪しい雑魚釣り隊」椎名誠

 週刊ポストに月一連載中の「怪しい雑魚釣り隊シリーズ」6作目(2015・3月~16・12月掲載分)。
 椎名隊長を中心とした怪しいメンバーたちが各地で魚を釣りながらバカキャンプを繰り広げるという紀行モノ。
 2005年に雑魚釣り隊が結成されたときはメンバーは10名だったそうですが、10年経った今は30名超。
 元は沖釣り専門誌「つり丸」に掲載されており、その頃は関東近県の名もない海岸に行ってテントを設営し、流木を探してきて焚き火を作り、そこらにいっぱいある漁港の堤防から小魚を釣って雑魚鍋を作り、それを肴に酒を飲んで喜んでいるというものだったそうですが、連載まるごと週刊ポストの移籍した今は、北海道から沖縄までの日本中に舞台は広がり、時には海外へも遠征するようになっているそうです。本書には、三浦半島や房総半島など関東をベースに、富山湾、鳥取米子、長崎平戸、伊豆諸島青ヶ島、そして台湾の緑島などが彼らの怪しい活躍の場として載っています。

 私、椎名誠の影響で「酒さえ飲んでいれば人生はなんとかなる」と騙されたクチなんですが、このシリーズは知りません。
 というか、最近はすっかり目にしなくなりましたから。
 本書にも載せられてましたが、「哀愁の街に霧が降るのだ」の頃がやはり全盛期だったですかねえ。
 怪しい探検隊シリーズも好きでした。あのときの料理人はリンさんだったかなあ。
 なんせ、椎名隊長も70代半ばですから、もうほんとに、びっくりですよ。孫さんが中学に入るというのだから。
 所々写真もあって、まあ、ガタイもいいし見た目は若いんですが、自分のことを「まったく困ったじいさん」と書いてあるのを見ると、しみじみと時の経ったことを感じましたねえ。
 同級生の木村弁護士だって、頭真っ白でしたな。
 あの人はどうなったんだろ、ワニ目の、沢なんとかいうもうひとりの同級生は。
 ひょっとしたら、もういないかもしれないねえ。
 さっきは騙されたクチなんて書いてしまいましたが、とんでもなく感謝しています。
 本当に面白かったですから。

 で、久しぶりのバカ紀行はどうかというと、正直、あんまり。
 なんつかこう、内容が薄いように感じました。
 まあ、枚数制限のこともあるのかもしれないけど、連載ものだから。
 メンバーの人数も多すぎるので、ひとりひとりの特徴が飲み込めませんでしたから、これが薄さの原因でもあるでしょう。
 無目的バカキャンプといいながら、それほどバカ騒ぎでもありませんし。
 そりゃ似たようなことを何年もやっていれば、飽きるわなあ。
 でも、長年の経験からかテントの張り方の工夫は見るべきものがありました。
 ひょっとしたら、災害時に何かの役に立つかもしれません、ゲル式多人数簡易テントね。
 園芸用のプラスチック棒と、ブルーシート、強粘着性のダクトテープが必要。

 あと、遊び先で一番印象に残ったのが、伊豆諸島の絶海の孤島・青ヶ島。
 いったん上陸しても、波の都合で迎えの船が何週間も来ないこともあるらしいです。
 島の方いわく、帰りの船に乗り込めたときに初めてああよかった言えるんだとか。
 火山島(江戸時代に大噴火)で、島全体がフライパンみたいな形をしており、海に囲まれているのに海が見えない。
 人口が170人。おそらく日本最強の秘境かもしれません。
 雑魚釣り隊ももれなく閉じ込めれてしまったわけです。
 あとは・・・砂浜に打ち上げられる富山のホタルイカが初見聞でした。
 機会こそあれば、私も陸でイカを拾ってみたいです。
 椎名さん、どうかお元気で。


 
 
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「残照のヤルン・カン」上田豊

 著者の上田豊(あげたゆたか)さんは、現在名古屋大学名誉教授。氷河科学が専門。
 本書は1973年に著者(当時29歳)が参加した京都大学学士山岳会(AACK)によるヤルンカン登頂の記録。
 第1次アタック隊として登頂に成功した著者ですが、帰路に遭難してパートナーが行方不明となり、自身も重度の凍傷により手足の指の多くを切断することを余儀なくされました。
 身の毛がよだつ迫真の遭難生還記はもとより、日本を出発するまでのたくさんの仕事、物質の補給、頂上にいたる登攀ルートの確保など、本書は日本登山史に残る名著としても知られています。
 流石なのは「残照のヤルン・カン」というタイトルですね、私は読後にしみじみと感じ入りました。

 戦後ネパールへ日本人として初めて入国した西堀栄三郎(当時70歳)を隊長とし、歴戦の登山家を擁する京都大学学士山岳会が当時未踏峰中最高峰だったヤルンカンへの登攀を開始したのは1973年3月のことです。
 登山許可を得るために様々な困難を克服した末のことでした。
 ヤルンカンはネパールとシッキム王国(現在はインドシッキム州)の国境に位置する東ネパールカンチェンジェンガ西峰で、8505メートルの標高を誇る残された未踏峰です。
 上部は高度差1500メートルの胸壁で守られ、高度7500メートル付近からはじまる急斜面の長いトラバースは、氷がでていれば滑落の、雪がつもっていれば雪崩の危険が大きく、頂上部への最後の道程は岸壁のなかにはいりこむ難ルートです。
 8000メートルを過ぎても、そにうえにまだ500メートルあるのですよ。
 登攀者は、危険なルートの突破を希薄な酸素のもとで行わなけれななりません。
 京大山岳会は、70歳の高齢で5210メートルのベースキャンプにまで登って指揮をとった西堀隊長以下15名の隊員が素晴らしいチームワークで一蓮托生の精神のもと、この難所に挑んだのでした。

 著者の上田豊はこのとき29歳。氷河学を専門とする根っからの山好きなフィールドワーカーでした。
 遡ること8年前、20歳のときにアンナプルナ南峰(ガネッシェ)7256メートルの登頂に成功しています。
 チームには、他にも8名のヒマラヤ登山経験者がいました。
 頂上への挑戦権をもつ第1次アタック隊に著者が選ばれたのは、比較的体調が良かったからでしょうか。
 もうひとりのパートナーは松田隆雄、31歳。上田の先輩です。
 1973年5月14日早朝、キャンプ5(7950メートル)を出発したふたりは天候にも恵まれ、しっかりと計算されたルートを慎重に突破し、登頂に成功します。しかし下降を開始したときにはすでに午後6時半になっていました。
 これが運命の分かれ目となりました。日暮れのため下降途中でビバークを余儀なくされ、その夜にふたりは酷寒のなかで体力を消耗してしまうのです。ふたりは帰路のルートからずれてしまっていました。往路より一段上の雪山に迷い込んでしまっていたのです。酸素がなくなり、松田は動けなくなってしまいました。酷寒のために視力が低下しているにもかかわらず著者は現在位置も不明なまま、酸素ボンベをデポしていた地点まで懸命に戻ろうとしますが、このときすでに幻覚を見ており、あげくに絶壁の端で片方のアイゼンを外して眠り込んでしまいました。望遠鏡でふたりの彷徨する姿を雲の切れ目から追っていたベースキャンプでは、無線機の応答もなく遭難と判断、即座に救援隊を向かわせました。
 間一髪、著者は救助されましたが、松田は折れたピッケルを残したまま行方不明となりました。
 8千メートルを超える高所で防寒グローブなどを失ってしまっていた著者もまた、命は助かったものの手足の指の多くを重度の凍傷でなくしてしまいました。
 念願の未踏峰の登頂に成功した京大隊でしたが、画竜点睛を欠く誠に残念な結果になってしまったのです。
 
 実は、このときの隊員15名のうち3名がその後、山に絡んだ事故で死亡しています。
 偶然だとしか言いようがないのですがね。
 山に挑むような精神は、一般人よりも遥かに死に近い場所にいるのでしょう。
 この本を読んでいても、ずっと順調にいってるように思えるんですよ。
 それで死ぬんだったら、登山はある意味死ににいってるようなもんだと思いました。
 莫大な金をかけてね、とてつもなく危険なスポーツですよ。
 しかしそこまでしても、やる価値はあるのだろうなあ。
 世界の人類が私ひとりになったとしたら、私は山に登るだろうか。


 
 
 

「生と死のミニャ・コンガ」阿部幹雄

 「なぜ、阿部さんだけが死ななかったのですか」
 ある遺族が質問した。
 質問をされるまで、「なぜ死ななかったのか」などと考えたこともなかったぼくは、質問に答えることができなかった。
 なぜ死ななかったのだろう。
 なぜ、ぼく一人生き残ったのだろう。
 それが、ぼくの運命というものなのか。答えを見いだすことができないぼくは、「運命だと思います」とだけ、答えるのが精一杯だった。


 8人が滑落死亡した北海道山岳連盟ミニャコンガ登山隊の生還者による衝撃の手記。
 ただただ、恐ろしかった。
 著者の目の前を、仲間がザイルで繋がれたまま2千数百メートルも落ちていったのです。
 恐怖に驚愕した彼らの顔、恐怖の目、見たことのない形相。しかも誰も声を上げないまま・・・
 
 ミニャコンガは中国四川省の成都から西へ約400キロ、チベット高原の東端に位置する大雪山脈の主峰。
 標高は7556メートルで、ヒマラヤのジャイアンツたちと比べると低いですが、魔の山として知られています。
 初登頂は1932年のアメリカ隊、第2登は1959年に中国隊(3名死亡)がいずれも北西稜から成功しています。
 しかしその後中国の政治情勢により閉ざされており、ようやく1980年代になって“開放”されました。
 そのタイミングで真っ先に手を上げたのが、日本の北海道山岳連盟の登山隊(23名)でした。
 日中友好のタイミングと政治力もあって、外国勢で初めて彼らに入域登山の許可が下りたのです。
 しかも、目指すのは未だ未踏の北東稜です。応募した隊員たちの胸は湧いたことでしょう。
 後にフォーカスの探検記で名を上げる著者ですが、このときは北海道大学を卒業したばかりで山岳写真家を目指す駆け出しの27歳の貧乏青年でした。著者は1981年の本隊の前に、1980年の偵察隊にも加わっています。
 日本登山史上最悪ともいえる滑落事故が起きたのは、1981年5月10日の頂上アタック当日でした。
 山頂を目指したのは第1次登頂隊の12名。出発時は快晴でしたが後に天気は急変。
 頂上までわずか100メートル少しというところで、先頭を行っていたひとりがいきなり滑落しました。
 山頂に迫っていたグループは登頂を諦め、滑落した隊員を捜索しますが見つかりません。
 仕方なく下山を開始しましたが、誰かが滑って落ちたのに巻き込まれて、ザイルで繋がっていた7人がもろとも滑落していきました。この事故は、体調が悪くて皆に遅れてようやく登っていた著者の目の前で起こりました。確保していた隊員は皆が落ちてザイルが伸び切ったときに吹っ飛んでいきました。その瞬間、彼と目が合ったそうです。
 助かったのは、幸か不幸か体調が悪くて遅れていた著者を含む3人と、それに付き添っていた副隊長の4人。
 しかし、天候が急変したのと積雪で帰りのルートを見失ったために、4人の下山もまさに危機一髪の決死行となり、実際に著者はクレパスに落ちて九分九厘死にかけています。
 ようやく第2次登頂隊のメンバーに救出されたときには、凍傷で足の指が真っ黒になっていたそうです。

 事故の原因はなんだったのか。
 事故報告書では、無理な全員登頂計画を立てた川越昭夫隊長の責任を厳しく問うていたそうですが・・・
 実質的な計画立案者だった氏家英紀副隊長が肺炎のために参加できなくなったときから、何かが芽生えていたのでしょう。
 隊員のなかでただひとり8千メートル級の登山経験者である森美枝子は第2次登頂隊でしたが、現地で登山を拒絶したそうです。第六感みたいなものでものすごい不安感を覚えたからだそうです。
 隊員たちの高所登山への知識不足、登山計画の緻密さの欠如。そして、何よりも失点だったのはミニャコンガを甘く見ていたことです。あの山なら全員でいける、やさしいとみんなが油断していました。だからバラバラに近い形で登り、ザイルの準備も1本しかありませんでした。ことごとく誤った判断を登山隊は下していました。その結果の事故なのです。
 ミニャコンガが魔の山と呼ばれる由縁です。やさしいと思わせておいて、最後の最後で牙をむくのです。
 なんせ、日本人だけで10名を超える方が亡くなっているのですからね・・・

 本書はこの後、著者の知人も亡くなった1994年の日本ヒマラヤ協会ミニャコンガ登山隊の不審な行動、そして彼らが発見した北海道山岳連盟の隊員の遺体の捜索の模様が語られています。
 遺体捜索隊は、著者も副隊長となって参加しました。1995年のことです。
 すでに家庭を持っていた著者にとって、ミニャコンガは地球上で一番行きたくない場所でした。
 ただひとり現場で生き残った自分が死んだ仲間に呼ばれるのではないかという不安があったそうです。
 うん、わかる。よく頑張って行ったと思いますよ。鎮魂ができたね。
 結局このとき遺体は見つかりませんでしたが、氷河で眠る息子たちへ故郷北海道の香りを届けたいと遺族がラベンダーのポプリを撒いたとの記述には、思わず涙が出て止まりませんでした。

 本書の著者である阿部幹雄さんが巻末のあとがきを書いておられたこともあって、私はこの本を「ミニヤコンカ奇跡の生還」で知ったのですが、というか、1981年の事故はそれを読むまで知らなかったのですが、改めて本書で事故の詳しいところを読んでみると感じが全然違いましたね。温度差というか。本読で阿部さんは川越隊長を手厳しく非難しており、生存した隊員や遺族と隊長の縁は事故以来切れているかのように書かれていますが、「ミニヤコンカ奇跡の生還」で著者の松田さんは登攀中に発見した北海道山岳連盟隊のピッケルを、登山の参考に話を聞きに行った川越隊長のお土産にしようと思ったと書いていました。なぜなんでしょうかね。この空気読めていない感はどこからきたのでしょうかね。
 ひょっとしたら松田さんらの挑戦は事故の翌年のことだったし、報告書とかがまだで、事故の本当のところの原因を松田さんは知らないまま、逆にもっとも責任があったと言われている川越隊長に話を聞いただけで行ったんじゃないですかね。
 隊長と他の隊員や遺族との関係が険悪になっていることを何も知らなかったんじゃないでしょうか。
 奈良副隊長か阿部さんに話を聞いていれば、違った結果があり得たかもしれないと思いました。





 
 
 
 
 

「ミニヤコンカ奇跡の生還」松田宏也

 手袋を手から取ろうとしたとき、僕は、高圧線に手が触れたような衝撃を受けた。
 スポッ!・・・と、絹の手袋のまず左の小指から取りにかかったところ、手袋の小指に、もう一枚の本物の小指の皮膚が指サックみたいに脱げた。皮膚がスッポリ取れた左の小指は、真っ黒だった。
 左手の指、五本ともすべて真っ黒だった。そして右手の指も、十本の指全部が真っ黒だった。
 指の痛みはまったくない。無感覚なのだ。だが、曲がらない。どの関節も動かない。

 指が死んだ。僕の知らないうちに、指が死んだ。

 日本人だけで14名が遭難死亡している魔の山ミニヤコンカからの壮絶な生還体験記。
 山菜採りにきた少数民族に奇跡的に発見され、中国四川省の病院に担ぎ込まれたときの著者の病状は、両手両足重度凍傷、敗血症、DIC症、厳重脱水、極度消痩、心身衰弱、急性胃穿孔、腹膜炎、肺炎性胸膜炎、真菌性腸炎、小腸劇性潰瘍出血、不完全性腸閉塞。まさに満身創痍、死の淵。実際に、開腹手術の途中で15分ほど心臓は止まったそうです。
 写真にも載せられていますが、現地病院の献身的な介護によって著者は回復し、生きて日本に帰国することが叶いましたが、両手の指を失い、両足は膝下15センチのところから切断されました。
 
 ヒマラヤ東端の中国領に位置するミニヤコンカは、標高7556メートル。
 8千メートルに及びませんが、非常な難峰として知られ、1932年にアメリカ隊によって初登頂されて以来、全員が無事で登頂に成功した登山隊はほとんどありません。
 1981年には北海道山岳連盟隊が滑落事故によって8名もの犠牲者をだしています。
 その翌年1982年に挑戦したのが、著者の所属する千葉県の市川山岳会でした。
 ミニヤコンカの麓の街との姉妹都市関係が縁だったそうです。
 パーティはBC以上総勢7名(女性隊員2名)。信じられない少数でしたね。ギリギリでしょう。
 実際の話、登頂アタックには著者(松田宏也)と菅原信で臨みましたが、サポートメンバーのアイゼンがなくなったり、滑落して怪我をしたりして、ベースキャンプと最前線のアタッカーとのブランクが開きすぎてしまいました。
 なぜアイゼンがなくなるのか。あまりにもミスがお粗末すぎる。
 この時点で失敗を認めて登頂を諦めるべきだったと思います。
 しかし、アタックするかどうかは頂上付近の2人の判断に任せられたのです。
 葛藤を抱えるふたり。高山病の症状もありましたが、結局、好天に恵まれたために登頂を決意しました。
 ところが、著者は未曾有の山岳事故を経験した北海道隊の隊長にも話を聞いていたのですが、同じような過ちを犯してしまうのですね。ガスに騙されて頂上を見誤ってしまうのです。すぐそこに山頂があると確信していたのに、ガスが晴れるとまだまだステップがあったのです。そして好天だった天候が急変。吹雪。雪壁に取り付いていたふたりは慌てて雪洞を掘ってビバークしましたが、この時点で登頂は諦めました。下山を決意します。
 しかしそのときには、降り続いた雪によって確かな下山ルートが消えてしまっていたのです。
 さらに不幸が追い打ちをかけます。トランシーバーが凍結で故障してしまいました。
 これで第1キャンプ(4900メートル)と連絡が取れなくなってしまいました。
 そのため、第1キャンプでふたりの無事登頂を祈っていた残りの隊員は、数日待ってふたりの凍死を決めつけてしまいました。キャンプを撤収して下山してしまったのです。

 下山を決意してから19日間。
 著者はその間にパートナーの菅原とはぐれ、手足に凍傷を負い、胃穿孔を起こして激痛に苦しみながら、夢遊病者のようにひたすら下を目指しました。山菜採りにきていたイ族の農民と出会ったのは2900メートル地点でした。
 救いの神となった彼らは、著者の体を暖め、塩水を飲ませたそうです。さすが高地民族だと思う。
 はぐれた菅原は第1キャンプすぐ下の岩場で遺体が発見されました。
 実はこのときの遺体捜索でも菅原と同期の市川山岳会のメンバーが高山病で死亡しています。
 あと数日、残りの隊員が第1キャンプで待っていれば、ふたりは助かったことでしょうが・・・
 それは結果論でしょうか。現に、著者は救助されて日本でリハビリに励みながら「私は被害者ではない、当事者だ」というコメントを残したそうです。

 やっぱり山は怖いとしみじみ思いながら読んでいたのですが、私、ある部分で全身に鳥肌が立ちました。
 前後を読んでも著者はさして深く考えていないと思われ、同じ部分を読んでも私と同じように恐怖の感覚を持つ方のほうが少数かもしれませんが、ものすごく不気味なところがありました。どことは言いません。それくらいどうかしている。
 高山病の症状には幻覚も伴うのは知っていますが、ふたり同時に同じ幻覚や幻聴を体験するはずがないと思うのですね。
 やっぱり山は怖い。でも危険を犯してでも山頂を目指す気持ちはわかる。難しいならなおさら・・・
 ミニヤコンカで亡くなられたすべてのクライマーたちのご冥福をお祈りいたします。


 
 
 
 

 

「そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記」ヨッヘン・ヘムレブほか

 探険史、登山史に最も長く残る謎、そして解けない謎と言われているのが、1924年6月6日にイギリスの伝説的な登山家ジョージ・マロリーが人類初のエヴェレスト初登頂を成し遂げたのかどうかということです。
 成功していたならば、1953年のエドモンド・ヒラリー卿の公式初登頂から一気に約30年も遡ることになります。
 謎の鍵を握るのは、山頂に向かってアタックしている姿を見られたのを最後に行方を絶ったマロリーと、バディのアンドルー・アーヴィンの遺体です。カメラを持っていましたから、ひょっとしたら登頂の証拠が残っているかもしれません。
 それはエヴェレスト頂上近くのどこかで、1924年からひっそりと眠っているはずでした。
 1975年の中国遠征隊のメンバーである王洪宝は、8100メートル付近で西洋人の遺体を発見しました。その遺体はアーヴィンではないかと言われましたが、王はその話を公にして間もなく雪崩で死にましたから、はっきりとした場所がわからなくなってしまいました。
 そして、1999年5月1日。ついに、ジョージ・マロリーの遺体が、75年ぶりに発見されたのです。
 遺体は高所の乾燥した気候のために、驚くほど自然な状態で残されていました。
 本書は1999年の遠征調査隊による遺体発見までの道筋が、1924年のマロリーとアーヴィンの登攀の経過と重なるようにして語られているばかりか、所持品や遺体の損傷の調査などから一番可能性が高いと思われる6月6日の事故の顛末も詳細に推理されています。

 本書の基点も、私がこの前読んだ「エヴェレスト初登頂の謎」トム・ホルツェルらしいですから、というのは山岳史家でマロリー遺体発見の第一の功労者である本書著者のひとりヨッヘン・ヘムレブも、それでマロリーの謎に興味を持ったらしいのです。本書を読む前に目を通しておく価値はあると思います。すると本書で端折られている部分が理解しやすくなります。イギリス登山隊の3度に渡る挑戦が詳細に記されていますからね。
 また、トム・ホルツェルが本を書いたのは遺体がまだ発見されておらず、彼自身も遺体発見の調査に失敗しているので、本書を読むことによってある程度謎が解かれるカタルシスが生まれることでしょう。

 結論から言えば、遺体が発見されてなお、マロリーが登頂に成功したかどうかは不明のままです。
 彼の遺体には、成功すれば山頂に残してくることになっていた妻の写真がありませんでした。
 このことは登頂したことを裏付けているのではないかと思われますが、一方で発見された酸素ボンベや登攀を目撃された時間から類推されるに登頂成功の可能性は低いともされています。
 私が一番感動したのは、今の山岳装備とはまったくレベルの違う粗末な衣服類を彼が身にまとっていたことです。
 信じられない薄着。我々が真冬に街を歩いているのよりもまだ防寒レベルが低いであろう衣服、そして鋲靴。
 昔の人は頑健だというけれど、これでよくもまあ、8千メートルを超えたものだと驚愕しました。
 やはり彼の名は伝説に相応しいですね。成功していようとしてなかろうと、マロリーは超人です。
 個人的には、成功していたのだろうと思いますけど。
 本書も若干、そっちよりに推測されていると思う。夢抜きでね。
 たとえ帰りが真っ暗になろうと、あそこまで行っていればチャレンジしたのではないですか。
 滑落した場所は、第6キャンプに帰る途中でした。夜中に落ちたのだったら登頂成功を暗示しているんじゃないですか。
 いずれにせよ、中国の王が仮に埋葬したとされるアーヴィンの遺体が見つかれば、かなりはっきりするはずです。
 なんで見つからないんですかね。
 本書の捜索隊も、当初はある程度場所が絞れるアーヴィンの遺体を発見するつもりでした。
 ところが、あろうことか捜索開始初日の、わずか数時間で、マロリーの遺体を発見してしまったのです。
 発見した隊員たちが遺体のネーム入りのシャツを調べて、「なんでアーヴィンがマロリーのシャツを着ているんだ?」と思ったほど、意外な発見でした。
 近い将来、マロリーの名誉のためにも、謎が解かれることを願ってやみません。


 
 
 
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